発達障害の症状が出ている人に「なんで?」と聞きたくなります。なぜ、どうして? そんなひどいこと、そんな困ったことと聞いても、たいていは「俺は間違ってない」「俺もわからない」「なんでだろうね?」という答えが返ってくることが多いようです。性格なのか、性質なのかはわかりませんが、「なんで?」と聞いても、難しく、症状を知れば知るほど、泥沼の心のままの状態になってしまうので、「いったん切る」というものすごい覚悟が、いるそうです。そこからじゃないと、前に進めない。
ところが、ここのいったん切る作業に対する工夫が、本だとたった一行で「相手を責めていても進みません」だけなのです。実際は、この切り替えの作業に苦労している人ばかり。精神科医や行政の相談員などに相談しても、どこまで行っても距離感があります。なぜなら、実際の現場で困っていないので、どこか他人事で、相手も自分の範囲でしか答えてもらえません。それで、同じ立場の人と共感しあう作業が自助会になり、慰めあって、自尊心を取り戻し、自分だけじゃないと思い、というだけでも、やはり、やりきれなくなる。それが、発達障碍者と、その周りの人の気持ちです。
この切り替え作業をしていくのは、どこまでも自分であり、そうなると、「いったん切る」「相手に期待しない」なんて言うのは言葉では簡単ですが、気持ちの問題です。相手が浮気を繰り返すことを最初からしていたら、「この人、浮気をする人だけど、憎めないし、いいや」と割り切れますが、発達障害の場合は共同作業が増えて、「もしかして?」が繰り返されて、トラブルだらけでも、そして、取り返しのつかないことも起きて、そこで「発達障害と言われても」とあきらめきれないというか、やっぱり「なんで?」と言いたくなります。たくさんトラブルがあったり、嫌なことがあった後の、「いったん切る」は性格によりますが、そんなにすぐには難しく、そして、発達障碍の症状がある人が、ずっと近くにいる状態が続けば、トラブルも続いていて、それでさらに「なんで?」とつい思います。これを断ち切るのは、やはり、あきらめ。「この人は、悪気がないけど、私は付き合いきれないな」という状態からの、さらにあきらめ。「この人から、精神的に距離を取るぞ!!」という覚悟が必要になりますが、この心境まで行くまでが、私は「悟り」と思っています。修行じゃないんだからとは、思いますが、悟りを開いていくしかないんでしょうね。あるがままを受け止めて、そして、自分の中の心の安定の場所を探る。
何もかも明らかにしたうえで、「私はこうしたい」という気持ちになり、「なんで?」と言ってもしょうがないと思うようになり、その作業は、自分で作っていくしかなさそうです。
これらの心境になれるために必要なのは、自助会以外なら、カサンドラから回復しましたよという本、ブログ、体験談などを読んで、自分に合った方法を見つけていくのがいいのかもしれません。