ASD、ADHDの「当事者」の人はできないことが多いようです。限界があり、持って生まれたものなので、本人に責任はないと思われがちですが、実際は違います。知的障害を伴わないために、できない範囲に対して、責任が全くないかというと、そうではないようです。
それで、できないことを職場や家庭で、代わりにやってもらえばいいという、間違った認識を持った発達障害の「当事者」が時々います。周りは自立支援で考えています。本人は、できないから、代わりにやってもらおうとする。「やってもらえばいい」「世話してくれるから、ほかのものも頼んじゃえばいい」「嫌がってなさそうだから、ずっとやってくれるはず」と勘違いします。実際は、発達障害だとわかるまで、手助けをしているつもりの発達障害の周りにいる「周辺者」たち。ところが、ASDもADHDも脳の動きから、「やってくれるのだから、永久にやり続けてくれるはず」と勘違いしてしまう人がいます。助けるにしても、特有のこだわりや、自分の方法をとりたがったり、了解を取らないでやってもらおうとしたり、トラブルになりやすい。当然、次からは、「周辺者」は警戒し始めます。そして、どんどん助けてもらえなくなる。「この間まで、助けてくれたのになぜ?」という状態に陥ることも多いようです。
持論を振りかざす人も「当事者」に多く、グループ行動をするときにはまとまりません。「周辺者」は一般感覚で考えます。発達障害の症状があるとしても、一般的に、苦手なことが多い人に対して、自立支援的な考えで、補助をしようというのが一般的です。障がい者自立支援の考えも同じですが、本人の範囲というものがあり、本人が責任を取ったり、判断したり、できるだけ自分でやってもらって、あくまで補助のつもりで支援をしたいと思っている「周辺者」が多いですが、「当事者」は、できれば、ミスが多いので、代わりにやってくれるなら、そのほうが嬉しいし、楽だと勘違いして行動する発達障碍者もいます。この意識の差が、問題となり、「やってくれるんじゃないの?」「え、わたしがやるの?」という意思の発達障碍者だと周りの人が嫌がります。暗黙の了解があるので、範囲は、ケースによって違ってきていて、言いだしづらい環境の中で模索され、「いつまでカバーしないといけないのだろう?」「前に教えてあるのに、なぜ、自分でやっていこうとしない?」「前と同じような失敗をしたのだから、それを繰り返されても」という意識の差が、どんどん埋まらなくなり、周囲の人が、「このまま助け続けると、つらいので無理だ」と、完全にやってもらえなくなってから、「実は発達障害だった」ということが発覚というのも少なくないようです。この時点で、気の優しい「周辺者」がそばにいたら、知らぬ間に「共依存」のように「当事者」のほうだけ思っています。「周辺者」のほうは違います。だんだんとトラブルも多いし、助け甲斐もないし、変なことを言い張るし、疲れ始めて、共依存ではなく、サポートのつもりなのに、「なんで、自分でやらないの?」となっていて、お互いの意識はものすごく差が開いています。
実際に、仕事の場では、「自分は発達障害なので、周りの人が俺の代わりにできない範囲は全部カバーしてほしい」という要求は通るのかと思ったら、職場によってまちまちのようです。ほとんどが、対人スキルが不必要な配置に、どんどん配置換えになったり、時には、「もう、君はちょっと無理だと思うよ」とはっきり言われたり、などが多いようです。職場に一人混じる発達障がい者に自覚なく、周りにカバーされている意識がなく、むしろ、周りのカバーは、「あの人たちが望んでやっていることだから、知らない」と思っていて、そこを気にしていないし違和感がない発達障がい者も多くて、職場相談で、「もしかしてASDのようですが、私たちは仕事にならず、ほかの人たちの2倍の量の仕事をしているのです。職場の数人で、その人の仕事の分をカバーしないといけなくなり、その人が何かやらかしそうなので、何度も確認しないといけないため、二度手間です。疲れ果てています」なんて書き込みまでたくさん見つかります。
なぜ、こういうことが起こるかというと、最初の、共依存の状態になっていても、違和感を持たないのが発達障害の人の特徴にあり、なぜ違和感を感じないかというと、他者と自分との距離感がつかめないこと、相手の立場に立てないこと、絶えず、自分の側からしか見たことのない風景で、今まで生きてきたから。そのため、指摘されても、相手は一般的に対応を求めているだけなのに、「あなたたち変よ。私は正しいのに。ひどいわ。いじめよ」なんてい被害者ぶってしまうケースも多数。生まれてこの方、本人は、他者から見た自分は考えることができないので、教わってもいないし、わからない人も多いからのようです。
自立支援の感覚を持つ「周辺者」と、共依存が居心地がいい「当事者」の感覚の違いは歩み寄るのは難しいようです。「当事者」が自覚があるかどうかで違ってきます。そして、症状が本当に重い、ASDやADHDだと、どうしても自分本位な考え方が自然となってしまい、周りとはうまくいかなくなるようです。共依存を望む「当事者」の場合は、「周辺者」は、無理して合わせる必要がない。というのが一般的な「専門家」たちの意見のようです。自立支援法も同じ考え方で、それが一般的だからです。発達障害者が児童の時に、一人だけ、勉強ができなかったり、運動ができなくても、代わりに宿題をやるということは、ほとんどないからです。その児童ができるように指導がされます。
発達障がい者が、本当に自分でやろうと思えるような場合は、受動型のアスペルガー、不注意優位状態のADHDの「当事者」の中で、症状が軽い人が多いようです。
代わりにやってもらいたがる発達障害者から頼まれ続けたら、「周辺者」は無理をしないほうがいいと思います。発達障がい者の「当事者」は、自分ではどうしようもないことなのだから、大目に見てほしいと思うようですが、現場の目は、知的障害が伴わないので、そうもいかない。というのが一般的なようです。
身近な人に「ASD、ADHD」の症状が出たら? どうしたらいいのか、本、資料、インターネット情報をまとめています。現在、カサンドラ症候群状態です。その記事も載せています *前はアスペルガーと表記していました
時間と日にちにこだわりが
「本当にその日じゃないといけないの?」ということを言い張る人が、ASDでたまにいるようです。よく聞いてみたら、変更可能とか、臨機応変に対応できるはずなのに、「この日じゃないと困る」と言い続ける。この部分が自閉症的なこだわりらしく、思い込んでいるので、困ります。そのほか、こだわりがたくさんある人も多いのがASDの「当事者」です。内容からすると、こだわる必要がない。けれど、ご本人は脅迫観念的な勢いで、こだわります。そのため、問題がたくさん出ます。
これらのこだわりに「周辺者」はどの程度合わせるべきかは、自分で考えるしかなさそうです。合わせないと「人でなし」ぐらいの勢いで、文句を言い続けたり、攻撃され続けたりするケースも多く、「周辺者」は疲れ切ります。そうなると悪循環で、「またですか?」となり、「合わせきれない」といつかは、疲れ切ります。ところがASDの「当事者」は、前と同じことをしているだけだから、相手が悪いと思い込み、大変です。
ASDだと気づいた場合は、その時点で、とりあえず、合わせるのをやめたほうがいいケースも多いようです。「そのこだわりに一生、合わせ続ける自信がありますか?」というぐらいの覚悟が必要らしく、大変になるからだそうです。
「当事者」が自分がASDであり、それがASDの脳の性質からくる錯覚によるこだわりである、言い張ることは得ではなく、むしろ、損をすることも多いという部分まで、受け入れている場合は、こだわったとしても、変更や修正ができる「当事者」もいるようですが、自覚なし、相手が悪いと思っている場合は、無理をしないほうがいいようです。
これらのこだわりに「周辺者」はどの程度合わせるべきかは、自分で考えるしかなさそうです。合わせないと「人でなし」ぐらいの勢いで、文句を言い続けたり、攻撃され続けたりするケースも多く、「周辺者」は疲れ切ります。そうなると悪循環で、「またですか?」となり、「合わせきれない」といつかは、疲れ切ります。ところがASDの「当事者」は、前と同じことをしているだけだから、相手が悪いと思い込み、大変です。
ASDだと気づいた場合は、その時点で、とりあえず、合わせるのをやめたほうがいいケースも多いようです。「そのこだわりに一生、合わせ続ける自信がありますか?」というぐらいの覚悟が必要らしく、大変になるからだそうです。
「当事者」が自分がASDであり、それがASDの脳の性質からくる錯覚によるこだわりである、言い張ることは得ではなく、むしろ、損をすることも多いという部分まで、受け入れている場合は、こだわったとしても、変更や修正ができる「当事者」もいるようですが、自覚なし、相手が悪いと思っている場合は、無理をしないほうがいいようです。
短く一つ
ADHDの症状やASDの症状で、覚えていられない。何度も聞き返すというのがあります。長い文章、長い会話はついていけていないことがありますが、本人が自覚がないケースがあるそうです。理由は、生まれつきそうなので、ほかの人も会話についていけてないだろうから、同じ症状の人だらけなのだろうと錯覚しているかららしいです。
発達障害の症状がない「周辺者」は、成長によって、聞ける内容、覚えておける内容がどんどん増えていきます。ところが、「当事者」のほうは、それほど増えないけれど、違和感がないらしいです。そして、ここに「当事者」と「周辺者」の脳の性質の差ができていて、違和感を感じるのは、覚えていられる、会話にもついていけることができる、「周辺者」だけになるらしく、「当事者」は怒られると、「誰でも、この程度でしょう? なんで、怒る?」と思うらしいです。
これを、防ぐには、「一度に一つまで注意するね」「短く注意するね」と言ってから説明する必要があります。そして、一つの注意が終わってから、さらに、追加するという作業を行う必要があります。これをいちいちやっていると大変ですから、作業などの指示は、作業工程表を作成したほうがいいそうです。
「なんで、失敗するの?」「なんで、これを選択してしまうの?」という質問を発達障害者の人にする場合がありますが、「当事者」は、わからない人もいるようです。解説を読み、自分の症状を把握している人は、答えられるそうですが、それ以外は、「衝動的に、それをえらんだから」というADHDの当事者と、「それにこだわったから」というASDの当事者がいるようです。合併症は、どちらなのかはわかりません。選んだ理由を聞いてもわからないので、次から、「こうしてください」という指示をするしかないようです。「あなたは衝動的に選んでしまいやすいので、次から、〇〇〇という行動をしてください」とか「あなたはこだわりが強いので、▽▽を選んだほうがトラブルが少ないです」という提案をしたほうがいいようです。
短く一つぐらいしか覚えておけないので、それをたくさん積み重ねて、いつか、記憶が定着するのを待つしかないらしく、「一年たっても、同じことを注意され続けています」というケースも多いようです。だから、障害と名前がついているようです。
発達障害の症状がない「周辺者」は、成長によって、聞ける内容、覚えておける内容がどんどん増えていきます。ところが、「当事者」のほうは、それほど増えないけれど、違和感がないらしいです。そして、ここに「当事者」と「周辺者」の脳の性質の差ができていて、違和感を感じるのは、覚えていられる、会話にもついていけることができる、「周辺者」だけになるらしく、「当事者」は怒られると、「誰でも、この程度でしょう? なんで、怒る?」と思うらしいです。
これを、防ぐには、「一度に一つまで注意するね」「短く注意するね」と言ってから説明する必要があります。そして、一つの注意が終わってから、さらに、追加するという作業を行う必要があります。これをいちいちやっていると大変ですから、作業などの指示は、作業工程表を作成したほうがいいそうです。
「なんで、失敗するの?」「なんで、これを選択してしまうの?」という質問を発達障害者の人にする場合がありますが、「当事者」は、わからない人もいるようです。解説を読み、自分の症状を把握している人は、答えられるそうですが、それ以外は、「衝動的に、それをえらんだから」というADHDの当事者と、「それにこだわったから」というASDの当事者がいるようです。合併症は、どちらなのかはわかりません。選んだ理由を聞いてもわからないので、次から、「こうしてください」という指示をするしかないようです。「あなたは衝動的に選んでしまいやすいので、次から、〇〇〇という行動をしてください」とか「あなたはこだわりが強いので、▽▽を選んだほうがトラブルが少ないです」という提案をしたほうがいいようです。
短く一つぐらいしか覚えておけないので、それをたくさん積み重ねて、いつか、記憶が定着するのを待つしかないらしく、「一年たっても、同じことを注意され続けています」というケースも多いようです。だから、障害と名前がついているようです。
寛解?
症状が治まって、現れなくなる。完全治癒ではなくて、その状態を「寛解」というらしい。この言葉は精神障害でよく使われるそうですが、ASD、ADHDでも、言葉を使われる方もいました。症状が治まる。というか、トラブルが圧倒的に少なってくる状態になる人もいるにはいるようです。軽度の状態の発達障害の人で、自覚があり、取り組み、自分でしっかりと症状を調べまくるぐらいの熱心な人に多いようです。
寛解状態まで行けば、安心と勘違いしている発達障害の「当事者」がいますが、実は、ここはゴールではないようです。それは、「周辺者」にも、希望があるから。自分で選びたい選択肢がある。こだわりがある。どうしても、人生で、仕事で、これだけはという部分もある。そのため、「寛解状態だから、いいじゃない」と発達障害の人が思っていても、「周辺者」は、「もう、疲れたよ」「今後も、この状態は耐えられない」
「子供のがいるからね。それで、ちょっと、距離を取りたい」などの言葉もチラホラ書かれてありました。
ゴールが一人ひとり違い、症状に個人差がありすぎるため、どれが正解なのかは、わかりません。その時の気持ちで動いて、それが正解なのかはわからない。
寛解まで行かない人もたくさんいるため、大変になります。「寛解」を目指せたらいいですが、ハードルはいくつもあります。自覚してもらえないのなら、自覚するまで待たないといけないし、対応をできるようになっても、手探りで、問題だらけ。
寛解まで行けたらいいなと思ってますが、心は折れることばかりです。そして、「なんで、私がこんな目に」と、つい思ってしまう。症状に対して、どんな気持ちになるかは、「当事者」「周辺者」のそれぞれの考えによるみたいです。
寛解まで行けたら理想ですが、いけないかもしれないし、それまでに心が折れて離れてしまうこともありますが、どんな状況でも「当事者」が悪いわけでも「周辺者」が悪いわけでもないのかもしれません。「症状」がそれだけ重く、大変な状態です。行政のバックアップがしっかりしてきたら、変わっていくかもしれません。どの選択肢を選んでも、誰のせいでもないと思っておかないと、全員がつらくなりそうです。
寛解状態まで行けば、安心と勘違いしている発達障害の「当事者」がいますが、実は、ここはゴールではないようです。それは、「周辺者」にも、希望があるから。自分で選びたい選択肢がある。こだわりがある。どうしても、人生で、仕事で、これだけはという部分もある。そのため、「寛解状態だから、いいじゃない」と発達障害の人が思っていても、「周辺者」は、「もう、疲れたよ」「今後も、この状態は耐えられない」
「子供のがいるからね。それで、ちょっと、距離を取りたい」などの言葉もチラホラ書かれてありました。
ゴールが一人ひとり違い、症状に個人差がありすぎるため、どれが正解なのかは、わかりません。その時の気持ちで動いて、それが正解なのかはわからない。
寛解まで行かない人もたくさんいるため、大変になります。「寛解」を目指せたらいいですが、ハードルはいくつもあります。自覚してもらえないのなら、自覚するまで待たないといけないし、対応をできるようになっても、手探りで、問題だらけ。
寛解まで行けたらいいなと思ってますが、心は折れることばかりです。そして、「なんで、私がこんな目に」と、つい思ってしまう。症状に対して、どんな気持ちになるかは、「当事者」「周辺者」のそれぞれの考えによるみたいです。
寛解まで行けたら理想ですが、いけないかもしれないし、それまでに心が折れて離れてしまうこともありますが、どんな状況でも「当事者」が悪いわけでも「周辺者」が悪いわけでもないのかもしれません。「症状」がそれだけ重く、大変な状態です。行政のバックアップがしっかりしてきたら、変わっていくかもしれません。どの選択肢を選んでも、誰のせいでもないと思っておかないと、全員がつらくなりそうです。
症状がそこにあるだけ
「夫がアスペルガーと思ったときに妻が読む本」
宮尾 益知 著 滝口 のぞみ 著
この本はとても、参考になります。とあるサイトで、この本ですくわれたというものが紹介されていました。
たくさんのヒントがあります。そして、この本で繰り返し書かれているのが、「症状が出ている人が悪いわけでも、症状を受け止められない人が悪いわけでも、理解できな人が悪いわけでも、対応できない人が悪いわけでも、症状に気づけなかった人が悪いわけでもない」「誰が悪いわけでもない」という内容です。実際に、ほかの病気だと、すぐに、「そうだ」とわかります。ところが、発達障害の場合は、知的障害を伴わないために、成人で、見た目に出ておらず、認知がところどころおかしいと感じられる状態のために、そこが分からないのです。足が悪い人に「歩け」なんていう人はいないし、耳が聞こえない人に「聞いてよ」なんて言わないし、目が見えない人がいたら、「大変だな」と思うのが普通です。でも、脳の中身は見えない。これがものすごく重要で、そして、知的障害を伴わないというのが、ネックになっているようです。わかりづらいのです。だから、「注意し続けたら」「何とかわかってもらえるかも」これが「周辺者」が錯覚してしまうところになります。障害なのだから、どんなの努力しても難しい。ただし、障害だと分かるまでに、たくさんのトラブルがあって、それからやっと「発覚」となり、この時点で感情のもつれだらけになり、「今までのことはなに?」とか「障碍だと、こんなひどいことをしてもいいの?」「私は、あなたのなに?」となるわけで、「周辺者」は受け止めきれません。期待した部分がたくさんあり、それらも、全部、「難しいの?」となるために、「周辺者」は、「かなりのフォローが必要だよね」となり、受け止めきれずに、相手を責めたくなります。
発達障害の「症状が、そこにあるだけ」というとらえ方を、この本では解説されていました。それはわかっていても、「でも、現実は、トラブルだらけだけど、どうすればいい?」となります。症状があっても、誰かがフォローしたりすることになり、負担も大きいし、期待にも応えてはもらえず、不満がたまります。
「症状を理解し、受け止め、対応でき、症状が少なくなる」なんていうのが理想ですが、ほとんどの人が、「理解してもらえません」「受け止められません」「なぜ、できないのでしょう?」と書き込みをしています。理由は、一般的なことを期待してしまう心は、そんなに簡単に捨てられないからです。
夫が理解するのに、二年かかりました。療育を小学校から初めて、少し落ち着いたのが中学校になってからです。症状は出ますが、対応が落ち着けるようになってきました。トラブルが減ってきたように感じます。
こういう書き込みのほとんどが、「かなりの日数がかかりました」というのが多い。早い人で二年ぐらいだそうで、それも、障害の症状が出ている人が、ものすごく熱心に取り組んでいたからというケースであり、それ以外は、「100回はいい続けています」「一年間、注意し続けています。一向に減りませんが、覚えては要られるようになりつつあります」「二年かかって、自分の苦手なこと、なにができないかを理解し始めています」「自分の障害は、どういう状態なのかを受け止められるようになりつつあります」と書いているケースが多数。多くの人は、受け止めて、症状を理解してだけで、数年もかかっている。そして、「周辺者」は心を折れながらも、言い訳するのを認めるのではなく、「こういう方法があるよ」と気長に、どんなに嫌な思いをしても、言い続けたりしたようです。そんな長い時間の葛藤を繰り返すのは、とてもじゃないけどと思う人が多いようですが、家族だと、そして、子供が障害の人だと、その生活を続けるしかないため、頑張っているようです。
残念ながら離婚、別居も多いようです。どれを選ぶかは「周辺者」「当事者」がそれぞれ決めることになるようです。気長にがんばるか、距離を取って、かかわらないか、完全に別れてしまうか。それを選んでも、大変のようです。
宮尾 益知 著 滝口 のぞみ 著
この本はとても、参考になります。とあるサイトで、この本ですくわれたというものが紹介されていました。
たくさんのヒントがあります。そして、この本で繰り返し書かれているのが、「症状が出ている人が悪いわけでも、症状を受け止められない人が悪いわけでも、理解できな人が悪いわけでも、対応できない人が悪いわけでも、症状に気づけなかった人が悪いわけでもない」「誰が悪いわけでもない」という内容です。実際に、ほかの病気だと、すぐに、「そうだ」とわかります。ところが、発達障害の場合は、知的障害を伴わないために、成人で、見た目に出ておらず、認知がところどころおかしいと感じられる状態のために、そこが分からないのです。足が悪い人に「歩け」なんていう人はいないし、耳が聞こえない人に「聞いてよ」なんて言わないし、目が見えない人がいたら、「大変だな」と思うのが普通です。でも、脳の中身は見えない。これがものすごく重要で、そして、知的障害を伴わないというのが、ネックになっているようです。わかりづらいのです。だから、「注意し続けたら」「何とかわかってもらえるかも」これが「周辺者」が錯覚してしまうところになります。障害なのだから、どんなの努力しても難しい。ただし、障害だと分かるまでに、たくさんのトラブルがあって、それからやっと「発覚」となり、この時点で感情のもつれだらけになり、「今までのことはなに?」とか「障碍だと、こんなひどいことをしてもいいの?」「私は、あなたのなに?」となるわけで、「周辺者」は受け止めきれません。期待した部分がたくさんあり、それらも、全部、「難しいの?」となるために、「周辺者」は、「かなりのフォローが必要だよね」となり、受け止めきれずに、相手を責めたくなります。
発達障害の「症状が、そこにあるだけ」というとらえ方を、この本では解説されていました。それはわかっていても、「でも、現実は、トラブルだらけだけど、どうすればいい?」となります。症状があっても、誰かがフォローしたりすることになり、負担も大きいし、期待にも応えてはもらえず、不満がたまります。
「症状を理解し、受け止め、対応でき、症状が少なくなる」なんていうのが理想ですが、ほとんどの人が、「理解してもらえません」「受け止められません」「なぜ、できないのでしょう?」と書き込みをしています。理由は、一般的なことを期待してしまう心は、そんなに簡単に捨てられないからです。
夫が理解するのに、二年かかりました。療育を小学校から初めて、少し落ち着いたのが中学校になってからです。症状は出ますが、対応が落ち着けるようになってきました。トラブルが減ってきたように感じます。
こういう書き込みのほとんどが、「かなりの日数がかかりました」というのが多い。早い人で二年ぐらいだそうで、それも、障害の症状が出ている人が、ものすごく熱心に取り組んでいたからというケースであり、それ以外は、「100回はいい続けています」「一年間、注意し続けています。一向に減りませんが、覚えては要られるようになりつつあります」「二年かかって、自分の苦手なこと、なにができないかを理解し始めています」「自分の障害は、どういう状態なのかを受け止められるようになりつつあります」と書いているケースが多数。多くの人は、受け止めて、症状を理解してだけで、数年もかかっている。そして、「周辺者」は心を折れながらも、言い訳するのを認めるのではなく、「こういう方法があるよ」と気長に、どんなに嫌な思いをしても、言い続けたりしたようです。そんな長い時間の葛藤を繰り返すのは、とてもじゃないけどと思う人が多いようですが、家族だと、そして、子供が障害の人だと、その生活を続けるしかないため、頑張っているようです。
残念ながら離婚、別居も多いようです。どれを選ぶかは「周辺者」「当事者」がそれぞれ決めることになるようです。気長にがんばるか、距離を取って、かかわらないか、完全に別れてしまうか。それを選んでも、大変のようです。
自分の知っている範囲で考える
発達障害の人のトラブルの多さは、マイペースすぎて自己中心と勘違いされる脳の性質のためだそうです。
考えないといけない要素はたくさんあるケースでの判断は、自分の見えている範囲での要素だけで判断するらしく、それ以外の部分に無関心。
判断はしてはいけないと言われているのは、この部分になるそうです。それで、お仕事で困らないのだろうか? と驚きますが、仕事の面では強引なほうがいい場合もあるので、自分の要素の部分を強く主張して、進めてうまくいく場合もあります。日常生活でこれをやられたら、配偶者や家族、友達や親族は、困ってしまいますが、本人は、「うまく行ってる」と言い張ります。理由は、相手の見えている範囲はわかってないから。何度も説明してもらって、初めてわかるらしいです。
発達障害の人の見えている範囲が理解できないのは、理解する必要がないと思っているケース、理解できる説明をしてもらっていないケース、自分の判断が正しいと勘違いしていたケースなど、たくさんあるらしいです。
「あとから気づいた」という人も多いですが、後から説明してもらっても気づけない人も多数。
「何年か後に、初めて気づきました」と驚きのケースも。理由は考えるのに時間がかかる。そのため、後から、「こういう部分も気を使わないといけないのか」と気づいてからわかるなんてこともあるようです。
知っている範囲で思い込んでいる人の認知のゆがみは、何度も、わかるような説明を繰り返すか、わかるようになってくるまで待つしかないようです。最後までわからないという人も多いようです。
どちらにしてもアスペルガーの人の範囲となります。気づけるようになるまで、待つしかないようです。
考えないといけない要素はたくさんあるケースでの判断は、自分の見えている範囲での要素だけで判断するらしく、それ以外の部分に無関心。
判断はしてはいけないと言われているのは、この部分になるそうです。それで、お仕事で困らないのだろうか? と驚きますが、仕事の面では強引なほうがいい場合もあるので、自分の要素の部分を強く主張して、進めてうまくいく場合もあります。日常生活でこれをやられたら、配偶者や家族、友達や親族は、困ってしまいますが、本人は、「うまく行ってる」と言い張ります。理由は、相手の見えている範囲はわかってないから。何度も説明してもらって、初めてわかるらしいです。
発達障害の人の見えている範囲が理解できないのは、理解する必要がないと思っているケース、理解できる説明をしてもらっていないケース、自分の判断が正しいと勘違いしていたケースなど、たくさんあるらしいです。
「あとから気づいた」という人も多いですが、後から説明してもらっても気づけない人も多数。
「何年か後に、初めて気づきました」と驚きのケースも。理由は考えるのに時間がかかる。そのため、後から、「こういう部分も気を使わないといけないのか」と気づいてからわかるなんてこともあるようです。
知っている範囲で思い込んでいる人の認知のゆがみは、何度も、わかるような説明を繰り返すか、わかるようになってくるまで待つしかないようです。最後までわからないという人も多いようです。
どちらにしてもアスペルガーの人の範囲となります。気づけるようになるまで、待つしかないようです。
自分のペースで動く
アスペルガー、ADHDの人は、自分のペースがグループペースと勘違いしたまま、何年もそれが通ると思っているケースがあります。その後、ものすごいトラブルがあっても、流す。何度も流す。絶対にダメだというところまでいって、初めて、自分がしたことが発達障害レベルだと気づくなんてケースは、ものすごく多いらしいです。理由は、自分が「普通だと思っているから」環境にもよります。家族で似たような症状が出ていると違和感がありません。仕事やどんな場所でも出ていても、「自分い関係ないから、流す」という脳の作業が無意識の行われているらしく、よって、「相手が悪いから、関係ない」と言って、謝らないし、仕事で問題が出ていて、「それも相手が悪い」そんな感じで、年齢が経ってしまうようです。
こんな生活をしてから、いきなり「あなたは発達障害の可能性がありますよ」と言われても受け入れられる人は少ないらしく、「そんなことを言う、お前が異常だ」となって、よほどのことがない限りは、認めないらしいです。認めても、「でも、どこを直せばいいの?」「このままでいいじゃない」と考える脳のため、治らないようです。
登山や、ハイキング、ウォーキングを一緒にすると、自分のペースで動きます。雨が降っていたら、自分の傘だけ出します。周りの人の傘が鞄に一緒に入っていても、自分のだけ出して、歩き出します。なんて、ケースもあり。靴が並んでいて、全員の靴を並べてあげるなんてことはしない人も多いようです。食事を終えて、さっさと店を一人だけ出てしまう。なんてこともする人がいるようです。
子育てだと、マイペースで子供のほうが合わせるというケースが多くなり、それで、子供も、それに慣れているので、アスペルガーやADHDの人は、結婚してから違和感を感じるようなケースでも、「君にほうがおかしいよ」と言ってしまうらしいです。
この状態で、取り組むのは不可能で、診断が出て、そして、お医者さんから行動の説明を何度もしてもらって、初めて、「俺はおかしかったのか」と気づくケースも多いようです。
こういう状態から、気づけない発達障害の人に合わせると、周りの人は、「マイペースすぎる」となり、付き合いきれなくなって、放置する場合が多いです。無理して付き合うよりは距離を取りつつ、この人は自分の見えている範囲しか考えられない脳なのだから、しょうがないと思うしかないらしいです。
ただし、こだわりから、相手に要求するケースの場合は、要注意になります。自分のペースに合わせろという要求や、自分でやる範囲も「そちらがやるんだ!」というケース、そのほか、状況に合ってないことを要求された場合は、できるだけ合わせないようにしたほうがいいらしいです。理由は間違った認知をしてしまって、それが正しいと勘違いするためらしいです。そのほか、条件が違っても、一度でもやってもらったら、「次から、この人に全部やってもらってもOK」と勘違いして、お仕事やその他の対応などでも言い張ったり、大変になります。あまり密接につながると大変なので、できるだけ、本人にやってもらい、適度な距離感を取ったほうがいいようです。
こんな生活をしてから、いきなり「あなたは発達障害の可能性がありますよ」と言われても受け入れられる人は少ないらしく、「そんなことを言う、お前が異常だ」となって、よほどのことがない限りは、認めないらしいです。認めても、「でも、どこを直せばいいの?」「このままでいいじゃない」と考える脳のため、治らないようです。
登山や、ハイキング、ウォーキングを一緒にすると、自分のペースで動きます。雨が降っていたら、自分の傘だけ出します。周りの人の傘が鞄に一緒に入っていても、自分のだけ出して、歩き出します。なんて、ケースもあり。靴が並んでいて、全員の靴を並べてあげるなんてことはしない人も多いようです。食事を終えて、さっさと店を一人だけ出てしまう。なんてこともする人がいるようです。
子育てだと、マイペースで子供のほうが合わせるというケースが多くなり、それで、子供も、それに慣れているので、アスペルガーやADHDの人は、結婚してから違和感を感じるようなケースでも、「君にほうがおかしいよ」と言ってしまうらしいです。
この状態で、取り組むのは不可能で、診断が出て、そして、お医者さんから行動の説明を何度もしてもらって、初めて、「俺はおかしかったのか」と気づくケースも多いようです。
こういう状態から、気づけない発達障害の人に合わせると、周りの人は、「マイペースすぎる」となり、付き合いきれなくなって、放置する場合が多いです。無理して付き合うよりは距離を取りつつ、この人は自分の見えている範囲しか考えられない脳なのだから、しょうがないと思うしかないらしいです。
ただし、こだわりから、相手に要求するケースの場合は、要注意になります。自分のペースに合わせろという要求や、自分でやる範囲も「そちらがやるんだ!」というケース、そのほか、状況に合ってないことを要求された場合は、できるだけ合わせないようにしたほうがいいらしいです。理由は間違った認知をしてしまって、それが正しいと勘違いするためらしいです。そのほか、条件が違っても、一度でもやってもらったら、「次から、この人に全部やってもらってもOK」と勘違いして、お仕事やその他の対応などでも言い張ったり、大変になります。あまり密接につながると大変なので、できるだけ、本人にやってもらい、適度な距離感を取ったほうがいいようです。
仕事が覚えられない?
ASDというと、かなりの記憶力があり、知識を覚えるのが得意で、だから、学校の成績は良くて、というイメージが先行しています。ところが、実際に、「診断済みのASDの同僚が仕事を半年経っても、覚えられないのですが」というのをたくさん見かけます。「ノイローゼになりそう」「イライラします」かなりの書き込みの数に上がっているようです。未診断のものもあり、でも、している行動はASDのものと一致点が多い。理由は、適切な言葉で指導しないと、手順がむちゃくちゃになる、もしくは、やらない。放置。になるからです。そして、怒られたり、ムッとされていても、それも放置。なんてことが多数書き込みがあるのを見かけます。
ASDには独特の文法で、伝えないと、伝わりません。急ぎでお願い。と言っても、その急ぎのスピードが分からなくて、「一週間放置」というのがあったようですが、それでも本人は、「時間が空いてからやるつもりでした。忘れていました」だけで、「すみません」を言わないケースが多いようです。理由は、急ぎのイメージが「周辺者」だと、割とすぐに、何分も経たない状態で、一時間ぐらいいないに、もしくはわからなかったら、「いつまでですか?」と一般感覚の「周辺者」は尋ねます。ASDの症状がある「当事者」は急ぎは、「???」となります。一週間で急ぎなわけがありませんが、本人は悪気がありません。だったら、「30分以内に」と数値化してくれたらいいとなります。曖昧表現が分からないからだそうです。よって、仕事をするうえで伝えるときは、30分以内に、〇〇さんに、▽▽の方法で、◇◇してくださいという、ものすごく細かく伝えることでやっと、動いてもらえる状態になります。仕事だと、これぐらい事務的でもいいですが、家族や友達だと、そこまで言わないと伝わらない時に、興ざめの時もあります。むなしくなるケースもあります。よって、「自分でやったほうがいい」「付き合いは最小限にしよう」になります。それが「周辺者」の気持ちですが、ASDの「当事者」は違います。前はやってくれたのに、なぜ、突然変更するのか? 前と同じようにしてくれと思います。空気は読めませんから、「周辺者」は距離を取っているつもりなのに、「当事者」は寄っていき、よって、さらに「距離を取りたいのに。これだけ言ってもわからないのか?」というぐらい、何度も、何度も、トラブルになった方法を取りたがります。
忘れっぽいというのがたくさん見かけます。適切な言葉で伝えないと伝わらない以外に、覚えておけない。必要じゃない情報と勘違いして、忘れてもいいと思ってしまっている。など、脳内で起こっているらしいです。よって、仕事も覚えられない。そして、怒られやすい。誰かに聞きたくてしょうがない。でも、周りは距離を取る。悪循環になるようです。ジョブコーチを頼める職場であれば、そうしたほうが安全のようです。
家庭にはジョブコーチの派遣がありません。本当は家庭のほうがファミリーコーチがほしいというケースが多いのかもしれません。ファミリーコーチ制度ができたらいいなと切に願います。
ASDには独特の文法で、伝えないと、伝わりません。急ぎでお願い。と言っても、その急ぎのスピードが分からなくて、「一週間放置」というのがあったようですが、それでも本人は、「時間が空いてからやるつもりでした。忘れていました」だけで、「すみません」を言わないケースが多いようです。理由は、急ぎのイメージが「周辺者」だと、割とすぐに、何分も経たない状態で、一時間ぐらいいないに、もしくはわからなかったら、「いつまでですか?」と一般感覚の「周辺者」は尋ねます。ASDの症状がある「当事者」は急ぎは、「???」となります。一週間で急ぎなわけがありませんが、本人は悪気がありません。だったら、「30分以内に」と数値化してくれたらいいとなります。曖昧表現が分からないからだそうです。よって、仕事をするうえで伝えるときは、30分以内に、〇〇さんに、▽▽の方法で、◇◇してくださいという、ものすごく細かく伝えることでやっと、動いてもらえる状態になります。仕事だと、これぐらい事務的でもいいですが、家族や友達だと、そこまで言わないと伝わらない時に、興ざめの時もあります。むなしくなるケースもあります。よって、「自分でやったほうがいい」「付き合いは最小限にしよう」になります。それが「周辺者」の気持ちですが、ASDの「当事者」は違います。前はやってくれたのに、なぜ、突然変更するのか? 前と同じようにしてくれと思います。空気は読めませんから、「周辺者」は距離を取っているつもりなのに、「当事者」は寄っていき、よって、さらに「距離を取りたいのに。これだけ言ってもわからないのか?」というぐらい、何度も、何度も、トラブルになった方法を取りたがります。
忘れっぽいというのがたくさん見かけます。適切な言葉で伝えないと伝わらない以外に、覚えておけない。必要じゃない情報と勘違いして、忘れてもいいと思ってしまっている。など、脳内で起こっているらしいです。よって、仕事も覚えられない。そして、怒られやすい。誰かに聞きたくてしょうがない。でも、周りは距離を取る。悪循環になるようです。ジョブコーチを頼める職場であれば、そうしたほうが安全のようです。
家庭にはジョブコーチの派遣がありません。本当は家庭のほうがファミリーコーチがほしいというケースが多いのかもしれません。ファミリーコーチ制度ができたらいいなと切に願います。
一度、OKなら、その後もOK?
「これ、してもいいよ」と特別に許可をする場面もあるのではないかと思いますが、この部分で、その後、違う条件の時に、許可も取らずのOKだと勘違いするというケースがあります。
なぜ、こんなことが起こるのかというと、許可をもらった時のイメージが「当事者」と「周辺者」と異なるから起こるようです。「今日はいいよ」という言葉が入っていないと、もしくは、その言葉を聞いていないと、とにかく「いいよ」で、今後も全部OKだと勘違いして、そのまま、次の時も「いいといったじゃないか」と言い張ってしまいます。
それで、よく確かめると、「条件が違っているからダメなんだよ」と教えると「そんなことは初めて聞いた。早く言わないほうが悪い!!」と言われたりして、「周辺者」は、「なんで??」と驚きます。天然エピソード程度のものならいいですが、二度と取り戻せないようなケースだとトラブルになってしまいます。
この、勘違い、思い込みの積み重ねで、確認をしても、その確認でも、さらに思い描いたイメージが違ってきて、意思の疎通は図れないという場合もあります。こうなったらお手上げです。
自覚がある人の場合は、わかるまで、何度も説明を試みます。自覚がない人の場合は、説明しても聞かず、「お前が悪い」で耳に届きませんから、泣き寝入りです。
条件が異なっても、OKだと言い張ったり、発達障害の自覚を持つまでは、持ったとしても、「でも、なんで、私が悪いの?」という人も多いようです。こういう人の場合は、聞く耳を持つまで、そのタイミングまで待つしかないようです。何年もかかっても、自己破産しても、会社をつぶしても、仕事を失っても、奥さんを失っても、それでも、「わからない」という発達障害者も多いようです。だから、「障碍」と名前がつくようです。
なぜ、こんなことが起こるのかというと、許可をもらった時のイメージが「当事者」と「周辺者」と異なるから起こるようです。「今日はいいよ」という言葉が入っていないと、もしくは、その言葉を聞いていないと、とにかく「いいよ」で、今後も全部OKだと勘違いして、そのまま、次の時も「いいといったじゃないか」と言い張ってしまいます。
それで、よく確かめると、「条件が違っているからダメなんだよ」と教えると「そんなことは初めて聞いた。早く言わないほうが悪い!!」と言われたりして、「周辺者」は、「なんで??」と驚きます。天然エピソード程度のものならいいですが、二度と取り戻せないようなケースだとトラブルになってしまいます。
この、勘違い、思い込みの積み重ねで、確認をしても、その確認でも、さらに思い描いたイメージが違ってきて、意思の疎通は図れないという場合もあります。こうなったらお手上げです。
自覚がある人の場合は、わかるまで、何度も説明を試みます。自覚がない人の場合は、説明しても聞かず、「お前が悪い」で耳に届きませんから、泣き寝入りです。
条件が異なっても、OKだと言い張ったり、発達障害の自覚を持つまでは、持ったとしても、「でも、なんで、私が悪いの?」という人も多いようです。こういう人の場合は、聞く耳を持つまで、そのタイミングまで待つしかないようです。何年もかかっても、自己破産しても、会社をつぶしても、仕事を失っても、奥さんを失っても、それでも、「わからない」という発達障害者も多いようです。だから、「障碍」と名前がつくようです。
自分が困らないから、相手に謝れない
ASDの人が謝れないのは、相手の立場に立てないからだそうです。自分の側の立場で、脳で組み立てます。相手の悲しみ、喜びには無関心。「それ、何の意味があるの?」と思っているため、それで困っていると言われてもスルー。ところが自分が困る部分だけは過剰反応。「ひどいー!!」よって、一方通行なやり取りばかり続けて、「謝らなくてもいいよね。誰も悪くないよね」となるらしく、さすがに、それがずっと続くわけがないと思っていたら、
「自覚していても、謝らない」という書き込みがちらほら見かけて、「一年以上かけて、説得を試みましたが、無駄でした」というのがありました。理由は、「相手の立場って、なにが?」で終わるからだそうです。それより、「私が困ってる、困ってる、困ってる!!」と言い張るのを、「会話」と思っているという話をよく聞きます。そんな一方通行では、一緒に行動していても、「周辺者」は苦痛です。そのため、遊びに行くとか、何かを決めないという場合は、大丈夫のようですが、一緒に何かを決める場合は、かなり難しくなります。
「一緒に決めるということは無理」と思っておかないと難しく、「ほとんどを私がやっています」という周辺者も多いです。これをしてしまうと、「この人に依存していけば、一生、私はやらなくてもいい」と誤った認識をしてしまうこともあるために、やりたくなかったら、無理をしないほうがいいというアドバイスが多いようです。
今は謝れるようになりました。という人は、「受動型ASD」「自覚していて直したい」の二つの要素を持っている人になるようです。
「積極奇異型ASD」は人懐っこいのですが、言い張ることが多くて、こだわりが強くて、会話が一方通行の人が多いようです。無理して付き合って合わせると「周辺者」が困るので、距離を取ったほうがいいようです。合わせられる人だけ、無理しないようにしてお付き合いをして、ある程度のことは流すことが必要のようです。お友達という程度なら、会話に違和感があっても、流せば何とかなりますが、「一緒に決める必要がある人」の場合は注意が必要になるので、無理をしないほうがいいようです。
「自覚していても、謝らない」という書き込みがちらほら見かけて、「一年以上かけて、説得を試みましたが、無駄でした」というのがありました。理由は、「相手の立場って、なにが?」で終わるからだそうです。それより、「私が困ってる、困ってる、困ってる!!」と言い張るのを、「会話」と思っているという話をよく聞きます。そんな一方通行では、一緒に行動していても、「周辺者」は苦痛です。そのため、遊びに行くとか、何かを決めないという場合は、大丈夫のようですが、一緒に何かを決める場合は、かなり難しくなります。
「一緒に決めるということは無理」と思っておかないと難しく、「ほとんどを私がやっています」という周辺者も多いです。これをしてしまうと、「この人に依存していけば、一生、私はやらなくてもいい」と誤った認識をしてしまうこともあるために、やりたくなかったら、無理をしないほうがいいというアドバイスが多いようです。
今は謝れるようになりました。という人は、「受動型ASD」「自覚していて直したい」の二つの要素を持っている人になるようです。
「積極奇異型ASD」は人懐っこいのですが、言い張ることが多くて、こだわりが強くて、会話が一方通行の人が多いようです。無理して付き合って合わせると「周辺者」が困るので、距離を取ったほうがいいようです。合わせられる人だけ、無理しないようにしてお付き合いをして、ある程度のことは流すことが必要のようです。お友達という程度なら、会話に違和感があっても、流せば何とかなりますが、「一緒に決める必要がある人」の場合は注意が必要になるので、無理をしないほうがいいようです。
歴史が浅い
ASD、注意欠陥多動などの言葉が、浸透し始めたのは1980年、1981年ぐらいからになるようです。発達障害者支援法は2004年。2010年に、障害者自立支援法が改正されて、ASD、ADHDの扱いも変更になっているようです。
法律、基準がどんどん変わるため、とても、わかりづらく、ややこしいです。ただ、現場では手探り状態でやっているために、実際の発達障害の症状で悩んでいる「当事者」「周辺者」は物足りないようです。十分なケアをしてもらえていないという書き込みがあちこちに目立ちます。
現場での基準もあいまいで、どの程度のケアになるのか、まちまちのようです。ただ、それは、発達障害のことだけじゃなくて、ほかのどんなことでも、同じような状況で、先生によっては、診断が違ってきますし、治療方法も違ってきますし、発達障害の症状が出ている「当事者」「周辺者」が自分で、症状の勉強、法律や判断基準、どのようなケアが受けられるか、それらをどうやって活用していくかなどは、自分たちで考えていかないと、難しいようです。待っていても、十分なケアは受けられないため、自分に必要な知識を深めることが一番になります。そして、自分に必要なケアはどうしたらいいのか、環境を整えるには、どうやって行けばいいのか、この部分を考えることができる「当事者」というのは、少ないらしいです。症状が重すぎると、「何をどうしたらいいの?」となり、「周辺者」の手助けが必須となります。「周辺者」も考えすぎることなく、無理をせず、自分に合ったペースで対応を考えていくのが、いいようです。
意思の疎通が測れないというのは、判断や優先順位がおかしいというのが分かるのは、「周辺者」となります。「当事者」は、「おかしいかもしれない」とは自覚できでも、「それで、なにをどうしたらいい?」となる人と、「俺のほうが正しい、お前が間違っている」という人と個人差があります。決断は、優先順位を間違えてしまう、判断がおかしい人がすることはできませんし、意思の疎通の測れるかどうかは、ここも個人差があって、一緒に考えていくことも難しいケースも多いようです。
ほとんどのことを、「周辺者」が決定して、「当事者」は、それに対して、「間違っている」と勝手に変えてしまうとか、「お前はおかしいんだ」と言われたりとか、そういうケースはたくさんあり、「周辺者」は大変になります。どの程度、やるのかは、「周辺者」が決めることになります。歴史が浅いため、行政のバックアップを期待したいところですが、「当事者」「周辺者」「専門家」「行政」のすべてが、まだまだ、どうしていいのか、出来上がっていないのが実情のようです。
幼稚園や小学校での子供の症状を見守る形が作られて、そういう人が大人になってという状態になるまでは、発達障害の症状は、社会的に浸透は弱い状態が続くかもしれません。それで、できるのは、「当事者」「周辺者」が自分に必要な知識を自分で深めていく必要があり、そして、自分に必要なケアを利用して、無理をしないことが大事なのかもしれません。
法律、基準がどんどん変わるため、とても、わかりづらく、ややこしいです。ただ、現場では手探り状態でやっているために、実際の発達障害の症状で悩んでいる「当事者」「周辺者」は物足りないようです。十分なケアをしてもらえていないという書き込みがあちこちに目立ちます。
現場での基準もあいまいで、どの程度のケアになるのか、まちまちのようです。ただ、それは、発達障害のことだけじゃなくて、ほかのどんなことでも、同じような状況で、先生によっては、診断が違ってきますし、治療方法も違ってきますし、発達障害の症状が出ている「当事者」「周辺者」が自分で、症状の勉強、法律や判断基準、どのようなケアが受けられるか、それらをどうやって活用していくかなどは、自分たちで考えていかないと、難しいようです。待っていても、十分なケアは受けられないため、自分に必要な知識を深めることが一番になります。そして、自分に必要なケアはどうしたらいいのか、環境を整えるには、どうやって行けばいいのか、この部分を考えることができる「当事者」というのは、少ないらしいです。症状が重すぎると、「何をどうしたらいいの?」となり、「周辺者」の手助けが必須となります。「周辺者」も考えすぎることなく、無理をせず、自分に合ったペースで対応を考えていくのが、いいようです。
意思の疎通が測れないというのは、判断や優先順位がおかしいというのが分かるのは、「周辺者」となります。「当事者」は、「おかしいかもしれない」とは自覚できでも、「それで、なにをどうしたらいい?」となる人と、「俺のほうが正しい、お前が間違っている」という人と個人差があります。決断は、優先順位を間違えてしまう、判断がおかしい人がすることはできませんし、意思の疎通の測れるかどうかは、ここも個人差があって、一緒に考えていくことも難しいケースも多いようです。
ほとんどのことを、「周辺者」が決定して、「当事者」は、それに対して、「間違っている」と勝手に変えてしまうとか、「お前はおかしいんだ」と言われたりとか、そういうケースはたくさんあり、「周辺者」は大変になります。どの程度、やるのかは、「周辺者」が決めることになります。歴史が浅いため、行政のバックアップを期待したいところですが、「当事者」「周辺者」「専門家」「行政」のすべてが、まだまだ、どうしていいのか、出来上がっていないのが実情のようです。
幼稚園や小学校での子供の症状を見守る形が作られて、そういう人が大人になってという状態になるまでは、発達障害の症状は、社会的に浸透は弱い状態が続くかもしれません。それで、できるのは、「当事者」「周辺者」が自分に必要な知識を自分で深めていく必要があり、そして、自分に必要なケアを利用して、無理をしないことが大事なのかもしれません。
できないハードルは、どの程度?
発達障害の「当事者」はできる人はものすごくできることがあって、記憶力が抜群で、才能にあふれて、でも、こだわりが強くて、自閉症状もあって、日常で困るというレベルの人もいますが、個人差がありすぎて、色々なことが難しすぎる人もいるようです。ADHDを併発していると記憶が悪くて、すぐに忘れてしまうというのも多く、ところが、ASDとの併発していると他者との比較ができないため、自分が正しいし、間違っていないし、周りが怒ると、「怒るほうが悪い」となって、被害者のように感じてしまう人がいるようです。
見た目、年齢、普段の仕事ぶり、日常生活で、さほども問題が出ていなくて、なのに、いくつか、不思議な行動をしていたら、「注意をし続けたら、何とかなるのでは?」と錯覚するようですが、「どんなに注意しても、指導しても直りませんでした。時間の無駄でした」という書き込みをいくつか見つけました。障害と名がつくぐらいですので、やはり、そんなに甘くはないようです。何度も訓練をして、事前準備をしても、直前まで、しっかりと注意点と確認をしても、とっさの時にパニックになり、すべてぶっ飛んで、めちゃくちゃなことをしてしまい、怒られて、さらにパニックとなり、言い張ってしまうという状態になる人もいるようです。だからこそ、障害と名がつくようですが、これが少しずつ改善されるようになるには、時間がかかるようです。
ソーシャルスキルトレーニングは、日常で、自力でやっていく必要があります。実践で使えなければ意味がないからです。相手の話を5分だけ聞いてみる。相手が話しているときは、顔をきょろきょろしないとか、そういう訓練を重ねておく必要がありますが、どうしても、脳は、それを嫌がります。自閉症状は、とても難しく、「いやだ!!」と拒絶反応が強くなるようです。お薬も、「効いた」という人と、「かなり使っても、効果が分からない」という人もいて、色々のようです。
ハードルを低めにしないと心が折れるので、少しでもできたら、OKとしておかないと気持ちが持たないようです。ハードルは低めで設定して、もしも、できなくても、落ち着く練習をして、深呼吸をしたり、空を見たりして、気持ちの切り替える訓練もしておいたほうがいいようです。
できない脳である。という部分をわかっておかないと、「当事者」「周辺者」はつらいようです。症状が出ていない人のレベルに合わせるということは、難しい数式を解きながらマラソンをし続けるぐらい苦痛であると書いていた人がいて、「そこまで?」と驚きました。泳げないのに、顔を水につけられないのに、水泳をし続けろと言われても、できません。単語も知らないのに、イタリア語で話せと言っても、できません。それぐらい大変だと書き込まれているものが多いです。
「当事者」の人でときどき見かける書き込みで、「私に合わせてくれたら、うまく行ってるのに、なぜ、私の状態をそのまま受け入れてくれないのか?」というのがありますが、仕事の場では、さすがに、難しいことも多いようです。アメリカ人が日本語が話せないのに、アメリカの文法で、アメリカの習慣を取り入れ、日本人に合わせろと言っても、ほかの人は日本人ですから、「なんで?」となります。その感覚からスタートして、いきなり、「日本語を話せるようにならないと、難しいのか」と思って、習い始めても、日本語を話せるようになるまで、日本の習慣を覚えるのも時間がかかります。お互いに、違う国から来た人、そして、アメリカ人と話しても、難しいんだな。そもそも、アメリカの感覚が標準だと思っているのだなと思っているなら、誰も、それに対して、合わせろとは言いませんが、日本人の顔をしていたら、わかりません。そういう状態が、発達障害者の問題をわかりにくくしている気がします。
見た目、年齢、普段の仕事ぶり、日常生活で、さほども問題が出ていなくて、なのに、いくつか、不思議な行動をしていたら、「注意をし続けたら、何とかなるのでは?」と錯覚するようですが、「どんなに注意しても、指導しても直りませんでした。時間の無駄でした」という書き込みをいくつか見つけました。障害と名がつくぐらいですので、やはり、そんなに甘くはないようです。何度も訓練をして、事前準備をしても、直前まで、しっかりと注意点と確認をしても、とっさの時にパニックになり、すべてぶっ飛んで、めちゃくちゃなことをしてしまい、怒られて、さらにパニックとなり、言い張ってしまうという状態になる人もいるようです。だからこそ、障害と名がつくようですが、これが少しずつ改善されるようになるには、時間がかかるようです。
ソーシャルスキルトレーニングは、日常で、自力でやっていく必要があります。実践で使えなければ意味がないからです。相手の話を5分だけ聞いてみる。相手が話しているときは、顔をきょろきょろしないとか、そういう訓練を重ねておく必要がありますが、どうしても、脳は、それを嫌がります。自閉症状は、とても難しく、「いやだ!!」と拒絶反応が強くなるようです。お薬も、「効いた」という人と、「かなり使っても、効果が分からない」という人もいて、色々のようです。
ハードルを低めにしないと心が折れるので、少しでもできたら、OKとしておかないと気持ちが持たないようです。ハードルは低めで設定して、もしも、できなくても、落ち着く練習をして、深呼吸をしたり、空を見たりして、気持ちの切り替える訓練もしておいたほうがいいようです。
できない脳である。という部分をわかっておかないと、「当事者」「周辺者」はつらいようです。症状が出ていない人のレベルに合わせるということは、難しい数式を解きながらマラソンをし続けるぐらい苦痛であると書いていた人がいて、「そこまで?」と驚きました。泳げないのに、顔を水につけられないのに、水泳をし続けろと言われても、できません。単語も知らないのに、イタリア語で話せと言っても、できません。それぐらい大変だと書き込まれているものが多いです。
「当事者」の人でときどき見かける書き込みで、「私に合わせてくれたら、うまく行ってるのに、なぜ、私の状態をそのまま受け入れてくれないのか?」というのがありますが、仕事の場では、さすがに、難しいことも多いようです。アメリカ人が日本語が話せないのに、アメリカの文法で、アメリカの習慣を取り入れ、日本人に合わせろと言っても、ほかの人は日本人ですから、「なんで?」となります。その感覚からスタートして、いきなり、「日本語を話せるようにならないと、難しいのか」と思って、習い始めても、日本語を話せるようになるまで、日本の習慣を覚えるのも時間がかかります。お互いに、違う国から来た人、そして、アメリカ人と話しても、難しいんだな。そもそも、アメリカの感覚が標準だと思っているのだなと思っているなら、誰も、それに対して、合わせろとは言いませんが、日本人の顔をしていたら、わかりません。そういう状態が、発達障害者の問題をわかりにくくしている気がします。
環境づくり
ASD、ADHDの「当事者」が、診断を受けても、受けなくても、その後、どうするかは、自分たちでやらないといけない範囲がたくさんあります。精神科医や心療内科医、臨床心理士、発達障害者センター相談員などの「専門家」からアドバイスはもらえますが、症状の部分を考えてもらえても、人生相談までは乗れません。細かい個人で考えないといけない部分は、発達障害の症状が出ている「当事者」の周りにいる「周辺者」が「当事者」とともに、考えていく必要があります。
症状の勉強をして、知識を増やしていくにしても、細かい調べが必要で、ここだけでも、相当の時間がかかります。精神科医の先生に指導してもらうにしても、なかなか、大変のようです。そして、知識を、生かして、「当事者」に取り入れても、なかなかスムーズには進みません。「当事者」は、「私のどこがダメだというのだ? わたしはまちがってない」と思ってしまっていると、まず自覚を促すところからやらないといけないため、その説明がかかります。ある程度、そういうやり取りを繰り返して、やっと、自分はこういう部分が苦手で、ここは得意でなどが分かってきます。その中で、どうしても、「当事者」ができないことも考えていかないといけません。
「当事者」」「周辺者」はともに、無理をしない範囲での環境づくりが必要になります。日常生活で、ものすごく困っているものから手を付けていくか、とりあえず、今、困っている部分を考えるなど、それを対応するだけでも、ものすごく大変です。そんなやり取りを、たくさん、たくさんこなして、やっと、「当事者」のマニュアルができてきます。「当事者」も少しずつ慣れて来て、時には立ち止まり、そうやって、環境づくりをし続けます。
環境づくりは、色々な場所で、考えていかないといけませんが、怒られることも多いし、「なぜ、自分だけ」と嫌な気持ちになって、投げ出したくなることも多いようです。そういう場合にサポーターを増やしておくことも必要です。
環境づくりを始めるには、「当事者」が自覚があるか、対応していくかどうかが見極めになるようです。この部分がない「当事者」は、自覚が出てくるまで待つか、少しは対応してもいいと思うほどの、ものすごいトラブルになってしまうか、まで、掛かるようです。
かなり、のっぴきならない状況になっても、「当事者」が困っていない、わかっていない、誰かのせいにしてしまっているまま、立ち止まったままのケースがものすごく多いようです。「周辺者」は犠牲になる必要はないので、無理をしないのが一番です。「当事者」が気づいて、取り組むまで、待つか同課は「周辺者」が決めて、取り組めるようになったら、環境づくりをする。そして、何度も中断して、環境が整うまで、数年かかるのも多いようです。心が折れやすいことが、何度も続きますから、決して、無理しないほうがいいようです。
症状の勉強をして、知識を増やしていくにしても、細かい調べが必要で、ここだけでも、相当の時間がかかります。精神科医の先生に指導してもらうにしても、なかなか、大変のようです。そして、知識を、生かして、「当事者」に取り入れても、なかなかスムーズには進みません。「当事者」は、「私のどこがダメだというのだ? わたしはまちがってない」と思ってしまっていると、まず自覚を促すところからやらないといけないため、その説明がかかります。ある程度、そういうやり取りを繰り返して、やっと、自分はこういう部分が苦手で、ここは得意でなどが分かってきます。その中で、どうしても、「当事者」ができないことも考えていかないといけません。
「当事者」」「周辺者」はともに、無理をしない範囲での環境づくりが必要になります。日常生活で、ものすごく困っているものから手を付けていくか、とりあえず、今、困っている部分を考えるなど、それを対応するだけでも、ものすごく大変です。そんなやり取りを、たくさん、たくさんこなして、やっと、「当事者」のマニュアルができてきます。「当事者」も少しずつ慣れて来て、時には立ち止まり、そうやって、環境づくりをし続けます。
環境づくりは、色々な場所で、考えていかないといけませんが、怒られることも多いし、「なぜ、自分だけ」と嫌な気持ちになって、投げ出したくなることも多いようです。そういう場合にサポーターを増やしておくことも必要です。
環境づくりを始めるには、「当事者」が自覚があるか、対応していくかどうかが見極めになるようです。この部分がない「当事者」は、自覚が出てくるまで待つか、少しは対応してもいいと思うほどの、ものすごいトラブルになってしまうか、まで、掛かるようです。
かなり、のっぴきならない状況になっても、「当事者」が困っていない、わかっていない、誰かのせいにしてしまっているまま、立ち止まったままのケースがものすごく多いようです。「周辺者」は犠牲になる必要はないので、無理をしないのが一番です。「当事者」が気づいて、取り組むまで、待つか同課は「周辺者」が決めて、取り組めるようになったら、環境づくりをする。そして、何度も中断して、環境が整うまで、数年かかるのも多いようです。心が折れやすいことが、何度も続きますから、決して、無理しないほうがいいようです。
当事者の状態に合わせて考える
発達障害の「当事者」の状態は、変わっていく人もいます。現状のままの人もいます。現状のままの人の場合は、「変わってほしいのに」とぼやきたくなることがたくさん続きますが、変わらないので、「変わるまで、何年か、期待しないで、お待ちしております」と考えるか、「変わらないので、距離を取ります」「変わらないので、逃げます」とかになるのかもしれません。症状が重すぎるからです。
変わっていく人の場合は、その状態に合わせて考えていかないといけません。許せないようなことをされていたり、問題だらけで、「周辺者」の状況によっては、「合わせきれない」というのもあるからです。その時々によって変わりますが、決めるのは「周辺者」となります。「当事者」が決めると、見えている範囲、考えられる範囲にこだわるため、視野が狭くなり、先の見通しも考えないで決めようとしたりするからです。
変わっていくにしても、劇的ではありません。同じような事柄を、「前はやってくれたのに」と「当事者」が思い込んでいて、状態の変化についていけず、「やってほしい」とどんな状況でも言い張ったりするままの人も多いようです。それを一つひとつ、断ったり、対応を変えて、それを「当事者」が納得して、変化させるには、時間がかかるようです。気長にやるしかありませんが、「周辺者」の多くは、ほかの人だったら、もっと早く変化が出るのに、と、つい、思ってしまうので、なかなか難しいようです。
できないことの理由を知り、そして、状況が大変だった理由を知り、そして、変化させようとしても対応できない「当事者」の実力を、改めて感じ、そうやって、「じゃあ、どの程度なら、この人はできるのだろう?」とどんどんハードルが下がってきます。そして、現実と折り合いがつけられるようになるまで、とても、時間がかかるようです。
ハードルが下がり切り、「当事者」の限界を知り、「当事者」も自分の症状を知り、対応方法も学び、「周辺者」も、関わり方や気持ちの切り替え方を学び、というところまで、とても、時間がかかります。気持ちを徐々に落ち着けて、変わっていく部分を、どうとらえていくのかを「周辺者」の気持ちに従って、動いていく必要があるようです。
「期待しない。できなくても責めない。代わりにやらない。指導ではなく提案をする。応援する程度にする。無理をしない。言い訳しているのを、「いいよ」と言わない。できそうなことは、自分でやってみてもらう。怒りたくなるけれど、がまんする。犠牲者にならない。罪悪感を持たない。自分の範囲と相手の範囲で分けて考える。疲れたら休止する。そのうちできると、急がせない。悲観しない、楽しみを見つける。怒るより、「こうしてもらうほうが嬉しいよ」と言う」
という心構えが必要です。
変わっていく人の場合は、その状態に合わせて考えていかないといけません。許せないようなことをされていたり、問題だらけで、「周辺者」の状況によっては、「合わせきれない」というのもあるからです。その時々によって変わりますが、決めるのは「周辺者」となります。「当事者」が決めると、見えている範囲、考えられる範囲にこだわるため、視野が狭くなり、先の見通しも考えないで決めようとしたりするからです。
変わっていくにしても、劇的ではありません。同じような事柄を、「前はやってくれたのに」と「当事者」が思い込んでいて、状態の変化についていけず、「やってほしい」とどんな状況でも言い張ったりするままの人も多いようです。それを一つひとつ、断ったり、対応を変えて、それを「当事者」が納得して、変化させるには、時間がかかるようです。気長にやるしかありませんが、「周辺者」の多くは、ほかの人だったら、もっと早く変化が出るのに、と、つい、思ってしまうので、なかなか難しいようです。
できないことの理由を知り、そして、状況が大変だった理由を知り、そして、変化させようとしても対応できない「当事者」の実力を、改めて感じ、そうやって、「じゃあ、どの程度なら、この人はできるのだろう?」とどんどんハードルが下がってきます。そして、現実と折り合いがつけられるようになるまで、とても、時間がかかるようです。
ハードルが下がり切り、「当事者」の限界を知り、「当事者」も自分の症状を知り、対応方法も学び、「周辺者」も、関わり方や気持ちの切り替え方を学び、というところまで、とても、時間がかかります。気持ちを徐々に落ち着けて、変わっていく部分を、どうとらえていくのかを「周辺者」の気持ちに従って、動いていく必要があるようです。
「期待しない。できなくても責めない。代わりにやらない。指導ではなく提案をする。応援する程度にする。無理をしない。言い訳しているのを、「いいよ」と言わない。できそうなことは、自分でやってみてもらう。怒りたくなるけれど、がまんする。犠牲者にならない。罪悪感を持たない。自分の範囲と相手の範囲で分けて考える。疲れたら休止する。そのうちできると、急がせない。悲観しない、楽しみを見つける。怒るより、「こうしてもらうほうが嬉しいよ」と言う」
という心構えが必要です。
めどがつくまで時間がかかる
症状の理解をするのが一番最初だと分かっていても、「当事者」「周辺者」の両方が、すぐには気持ちは作れないようです。まず、「受け止められない」となるからです。その気持ちを作るのに、時間がかかります。診察してもらったほうがいいのかと迷いだして、診察してもらうにしても、病院選びもあり、その病院で診察してもらうまでも時間がかかったり、そして、診察結果が出ても、どうしたらいいのか、迷い。そうやって、かなりの時間を費やしてしまいます。
症状の理解をしていこうとしても、ここでもたくさんの問題が出ます。個人差があるからです。本を読んでも、「自分には当てはまってないから、私は発達障害だと、周りに言われたけれど、違うんじゃないの?」と思ったり、「でも、結構、トラブルもミスもあるよな」と落ち込んだり、「障害なら、自分の脳の問題なら、自分のせいじゃなかったのはわかるけど、取り組んでもよくならないのだろう?」と思ったり、葛藤が続くようです。
症状を理解して、受け入れるまで、一年以上かかるのは多いようです。認知のゆがみも一つ一つ理解していかないと難しいです。何年もかかって、やっと、「自分とは、こういう人間なのか」というのが出来上がるようです。自分の取扱説明書を作るまでに、ものすごくかかります。ところが、その取扱説明書、マニュアルを作っても、実行はなかなかできません。障害と言われる脳ですから、とっさの時に、どうしても、脳の癖がでるようです。
「こういうことはしてはいけないんだ」と学習したり、「これをしたら嫌がられる」ということを覚えたり、繰り返し、経験していき、自分の苦手なこと、得意なことがわかっていくようです。
これらの作業は順調に行っても、数年はかかるそうで、モチベーションが下がって、継続できないことも多いので、何度も中断されるようです。「周辺者」も、「当事者」の応援をしたいという気持ちを作るもの、すぐにはできないようです。トラブルだらけで、大変だったのに、「障害だから、それを水に流すの?」となってしまうから、徐々に受け入れて、気持ちを作るにも時間がかかるようです。
取り組まない人の場合は、受け入れるまでに、ものすごく時間がかかったという、書き込みが多いし、おかしいと思って病院に行っても、診断名がコロコロ変わったという人も、多いようです。
数年間も、待ち続けるという作業を「周辺者」はしないといけないようですが、報われない作業であるため、苦痛となり、そのうち、疲れ切ってしまう人も多いようなので、ほどほどに、「とりあえず、状態が落ち着くまで待ってみますが、でも、期待はさほど期待していません」という気持ちでないと続かないようです。
症状の理解をしていこうとしても、ここでもたくさんの問題が出ます。個人差があるからです。本を読んでも、「自分には当てはまってないから、私は発達障害だと、周りに言われたけれど、違うんじゃないの?」と思ったり、「でも、結構、トラブルもミスもあるよな」と落ち込んだり、「障害なら、自分の脳の問題なら、自分のせいじゃなかったのはわかるけど、取り組んでもよくならないのだろう?」と思ったり、葛藤が続くようです。
症状を理解して、受け入れるまで、一年以上かかるのは多いようです。認知のゆがみも一つ一つ理解していかないと難しいです。何年もかかって、やっと、「自分とは、こういう人間なのか」というのが出来上がるようです。自分の取扱説明書を作るまでに、ものすごくかかります。ところが、その取扱説明書、マニュアルを作っても、実行はなかなかできません。障害と言われる脳ですから、とっさの時に、どうしても、脳の癖がでるようです。
「こういうことはしてはいけないんだ」と学習したり、「これをしたら嫌がられる」ということを覚えたり、繰り返し、経験していき、自分の苦手なこと、得意なことがわかっていくようです。
これらの作業は順調に行っても、数年はかかるそうで、モチベーションが下がって、継続できないことも多いので、何度も中断されるようです。「周辺者」も、「当事者」の応援をしたいという気持ちを作るもの、すぐにはできないようです。トラブルだらけで、大変だったのに、「障害だから、それを水に流すの?」となってしまうから、徐々に受け入れて、気持ちを作るにも時間がかかるようです。
取り組まない人の場合は、受け入れるまでに、ものすごく時間がかかったという、書き込みが多いし、おかしいと思って病院に行っても、診断名がコロコロ変わったという人も、多いようです。
数年間も、待ち続けるという作業を「周辺者」はしないといけないようですが、報われない作業であるため、苦痛となり、そのうち、疲れ切ってしまう人も多いようなので、ほどほどに、「とりあえず、状態が落ち着くまで待ってみますが、でも、期待はさほど期待していません」という気持ちでないと続かないようです。
自転車操業の脳
自転車操業。資金繰りが困ってしまう、倒産寸前の会社の状態。これが、アスペルガー症候群の脳で起こってしまうらしい。どういうことかというと、時計などの裏蓋を開けたら、歯車がたくさん組み合わせて、動いている。あっちにかみ合い、こっちにも絡んで、そして、動いて、時間を正確に刻む。そこまで精密じゃなくても、社会やグループの成り立ちでは、あちこちの状態、気持ち、時間や制約事項を考慮しないといけない。これを、たった一つの部品の歯車だけ見てしまう。それがアスペルガー症候群の脳の性質であるらしい。その歯車だけ動けば、「なんとかなる!」と思い込んでいるから、大変になる。他の歯車とのかみ合わせが合わない状態で、言い張るため、一つしか歯車が動かず、そのため、時計は時を刻まない。全体がなんとなく動かないと、そこで止まってしまっているのに、
「うまく行ってるんだ!!」と言い張り続けるため、周りは困り続ける。それがどこでも起こり続けて、やがて、周りは疲弊する。「付き合いきれない」と。
これをどうすればいいのかは、「発達障害症状を持っている人が、まず、自覚すること。そして、どうすればいいのかを学ぶこと」になる。ところが、「だって、うまく行ってるじゃないか」と言い張る人がたくさんいるため、「自覚があります」「取り組みます」と思っている以外だと、「周辺者」は距離を取りながら、無理しないでください。場合によっては「逃げても構いません」という指導がお医者さんから出されることもあるそうです。
自転車操業になる前に、「周辺者」は無理しないほうがいいようです。お金の場合は特に、後からではどうしようもないので、予防が必要になります。助けていると限が無くなるどころか、一度、助けてもらうと認知が歪むケースも多く、「あの人に払ってもらえばいいのね」と勘違いして、「あなたが払うんでしょう!!」と言い張られたなんてケースもあり、怖くなります。
どこまで言っても、「当事者」が自分で自覚して、「止めたい」と思わないと、自転車が回り続けて、止まらなくなるようです。
「うまく行ってるんだ!!」と言い張り続けるため、周りは困り続ける。それがどこでも起こり続けて、やがて、周りは疲弊する。「付き合いきれない」と。
これをどうすればいいのかは、「発達障害症状を持っている人が、まず、自覚すること。そして、どうすればいいのかを学ぶこと」になる。ところが、「だって、うまく行ってるじゃないか」と言い張る人がたくさんいるため、「自覚があります」「取り組みます」と思っている以外だと、「周辺者」は距離を取りながら、無理しないでください。場合によっては「逃げても構いません」という指導がお医者さんから出されることもあるそうです。
自転車操業になる前に、「周辺者」は無理しないほうがいいようです。お金の場合は特に、後からではどうしようもないので、予防が必要になります。助けていると限が無くなるどころか、一度、助けてもらうと認知が歪むケースも多く、「あの人に払ってもらえばいいのね」と勘違いして、「あなたが払うんでしょう!!」と言い張られたなんてケースもあり、怖くなります。
どこまで言っても、「当事者」が自分で自覚して、「止めたい」と思わないと、自転車が回り続けて、止まらなくなるようです。
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ページの用語
「当事者」ASD、ADHDの症状がある人
「周辺者」アスペルガー、ADHDの周辺にいる人
「専門家」カウンセラー、精神科医
「周辺者」アスペルガー、ADHDの周辺にいる人
「専門家」カウンセラー、精神科医