ASD、注意欠陥多動などの言葉が、浸透し始めたのは1980年、1981年ぐらいからになるようです。発達障害者支援法は2004年。2010年に、障害者自立支援法が改正されて、ASD、ADHDの扱いも変更になっているようです。
法律、基準がどんどん変わるため、とても、わかりづらく、ややこしいです。ただ、現場では手探り状態でやっているために、実際の発達障害の症状で悩んでいる「当事者」「周辺者」は物足りないようです。十分なケアをしてもらえていないという書き込みがあちこちに目立ちます。
現場での基準もあいまいで、どの程度のケアになるのか、まちまちのようです。ただ、それは、発達障害のことだけじゃなくて、ほかのどんなことでも、同じような状況で、先生によっては、診断が違ってきますし、治療方法も違ってきますし、発達障害の症状が出ている「当事者」「周辺者」が自分で、症状の勉強、法律や判断基準、どのようなケアが受けられるか、それらをどうやって活用していくかなどは、自分たちで考えていかないと、難しいようです。待っていても、十分なケアは受けられないため、自分に必要な知識を深めることが一番になります。そして、自分に必要なケアはどうしたらいいのか、環境を整えるには、どうやって行けばいいのか、この部分を考えることができる「当事者」というのは、少ないらしいです。症状が重すぎると、「何をどうしたらいいの?」となり、「周辺者」の手助けが必須となります。「周辺者」も考えすぎることなく、無理をせず、自分に合ったペースで対応を考えていくのが、いいようです。
意思の疎通が測れないというのは、判断や優先順位がおかしいというのが分かるのは、「周辺者」となります。「当事者」は、「おかしいかもしれない」とは自覚できでも、「それで、なにをどうしたらいい?」となる人と、「俺のほうが正しい、お前が間違っている」という人と個人差があります。決断は、優先順位を間違えてしまう、判断がおかしい人がすることはできませんし、意思の疎通の測れるかどうかは、ここも個人差があって、一緒に考えていくことも難しいケースも多いようです。
ほとんどのことを、「周辺者」が決定して、「当事者」は、それに対して、「間違っている」と勝手に変えてしまうとか、「お前はおかしいんだ」と言われたりとか、そういうケースはたくさんあり、「周辺者」は大変になります。どの程度、やるのかは、「周辺者」が決めることになります。歴史が浅いため、行政のバックアップを期待したいところですが、「当事者」「周辺者」「専門家」「行政」のすべてが、まだまだ、どうしていいのか、出来上がっていないのが実情のようです。
幼稚園や小学校での子供の症状を見守る形が作られて、そういう人が大人になってという状態になるまでは、発達障害の症状は、社会的に浸透は弱い状態が続くかもしれません。それで、できるのは、「当事者」「周辺者」が自分に必要な知識を自分で深めていく必要があり、そして、自分に必要なケアを利用して、無理をしないことが大事なのかもしれません。