ASD、ADHDの症状を「周辺者」が知ろうとすると、症状ばかりに気が行きがちになります。それで、症状を把握した気になりますが、「当事者」が苦労した部分は見落としがちになります。ここで、大事なのが、「周辺者」は多数派で、一般感覚でのずれによる違和感でのトラブルが少ないことです。他県や外国に行けば別ですが、感覚のずれが少ない状態のグループ、団体に入っていたら、そこは自然と流し、そのままになっているため、「当事者」の気持ちの部分は、「周辺者」は、わかりません。
カサンドラ症候群の状態の回復のステップの一つに、相手の状態を受け入れる。否定しない。加害者、被害者として受け止める状態を、整理しないと行けない過程があります。これができてないと、さすがに、「いつまでも、トラブルを起こして、困るのだけれど!!」と言う心の状態のまま進み、「嫌だ」「なんで、こんなめに」「まだ、できないの!!」「いい加減にしてよ」「また、やったの?」なんて気持ちが積み重なってしまいます。実際に、この言葉は、「周辺者」が、価値観の違う世界、言葉がずれる世界で、例えば、外国や、知的水準の高いグループに入ってしまい、言われたら、嫌な気持ちになります。実際に、できるわけがなく、「なにがなんだか」としか言えず、「できるわけがない」とすねてしまいます。被害者、加害者という気持ちを捨てて、ステップアップし、お互いに見えている世界観が違うけれど、お互いの気持ちが大事で、お互いに無理して合わせる必要はないけれど、何がいいのだろうと模索して、整理したほうがいいようです。
カサンドラ症候群の状態で、気持ちの整理ができた人のコメントで、発達障害の「当事者」のためのボランティア活動をして、ASDの人の実態を知りました。というものや、精神科医の先生に、「当事者」の心の中で起きていることを、行動療法で教えてもらい、できない人に無理をさせてはいけないのだ、「当事者」は、一般感覚を教えてもらっていない、気づけない脳だった。自然と覚えるのは難しく、間違った認知で学習して、わざとじゃなかった。でも、多数派からしたら、違和感があっただけと、気持ちを整理した人もいたようです。
相手の心を知るためには、発達障害者の人の書いた本を、読んだり、ブログを読んだりして、苦労話を知り、「こういう点で困っているのか」「こんな感じ方をするのか」と理解するのもいいのかも知れません。ただし、ぼやきやそねみ、あまり参考にならない感情論で書かれている本やブログでは難しいので、自分が、共感できそうな文章を書いている、本、ブログを参考にした方がいいようです。
世界は多数派だけのためのものではないけれど、かといって、「当事者」だけが配慮されると言うのも、違う気がします。「当事者」「周辺者」の妥協点を、話し合いで埋めて行ければいいけれど、それができない「当事者」の場合は、「周辺者」が、少し歩み寄らないと難しいようです。ただし、「当事者」が、ものすごく「周辺者」を傷つけたり、妨害したり、嫌なことを押しつけたり、過剰要求したりした場合は、無理をしないほうが、いいようです。
カサンドラ状態の人には、たくさんのステップを経て、数年かけて、症状を少しずつ理解して、自分の心を落ち着けて、物事を整理し、動揺するのも自然のことで、つい、なじってしまう心が出てしまう、滞るのも人間なので、それの、自然のことと受け止め、受け入れられる、考えられる気持ちになったら、ステップを踏んでいき、徐々に段階を経て、回復に向かうのがいいようです。
ただし、ASDの「当事者」の障害者としてのスキルがどの程度なのかによって、大きく違いが出てくるようです。症状を全く理解しない人、自覚しているのに、そのままの人、周りの人に頼んでばかりいる人などだと、難しいようです。「当事者」が、自分の症状に対して、どうしたいのか、ASDとしての生き方を、ある程度、「当事者」が決めていないと、「周辺者」は、どうしようもなく、ASDの「当事者」の社会スキルが身につけていく過程で、嫌な気持ちになったり、挫折したり、嘆いたり、なじったりする気持ちもありますが、自分の心と相手の心と、両方を少しずつ理解して、整理してということを繰り返すと、落ち着いていくようです。
回復に数年かかりました。と言うのが多かったようです。