始めに

基準のページは、左の固定ページとなります。すぐ下のラベルはブログ記事の項目別になっています。右の目次は、ブログ記事の目次となります。

自立支援医療制度

 ストラテラなどの薬価がとても高い。治療代が高い。カウンセリング代が高い。という書き込みともに載っていたのが、これでした。どの程度のなるのかが、よくわかりませんが、こういうこともしっかり調べて、わからない場合は、発達障碍者支援センターの人に相談して、自分の状態にあったケアを考えたほうがいいかもしれません。

視野が狭い?

 キョロキョロする子供の絵が描かれた発達障害の資料本がありました。ところが、大人になっても、この部分がの残っている発達障碍者もいるようです。理由は、見えている範囲が、ものすごい狭く、一点集中型だからそうで、そこを凝視してしまう癖が脳内であるようです。一般的な感覚を持つ人からすると、「それでずっと過ごすとつかれないだろうか?」となりますが、実際に、相当疲れやすいらしいです。過集中と言って、そこばかりに集中してしまいやすく、よって、脳がオーバーヒートしやすいらしいです。一つの興味に対して、ものすごく集中するため、知識欲が強いと、そして記憶力も良かったりすると、高学歴か、社会的成功者になるということもあるそうです。ところが、集中対象が、一般的ではないと、ただ、ものすごく疲れるということを連続で行っていて、大変な日常が続いてしまう状態になるようです。ゲームや何かに依存してしまうのも、この現象から来るもののようです。切り替えが下手だからという場合と、それをしていると楽しくてしょうがないのでしてしまう場合と、没頭していることが自然すぎて気づいていない場合など、様々な理由があるようです。
 オーバーヒートしやすい場合は、脳の神経が一般人より傷みやすいらしいので、ミネラル不足が普段から起こるそうなので、ミネラル補給も考えたほうがいいようです。

 視野の狭さがどの程度なのか、一般的な感覚の人と違うので、わかりませんが、一般的な人は道を歩いているとき、日常生活を送るとき、一つの部分だけに集中すると、逆に危ないので、視野は広めにとって、今までの経験から、なんとなく見る位置も決まっており、危ないと思われるポイントになると自然と、そこを見て、それ以外の部分を見て、ということができて、歩いていても、自転車や車などを運転していても、視野は広めにとって、脳内も、そんなに動かず、自分に関係ある部分だけ取捨選択を自然と行っていて、歩いている程度ではそんなに疲れません。のんびり歩くということが一般感覚を持っている人は自然としています。ところが、発達障碍者は、それだと圧倒的に物足りないのか、絶えずキョロキョロして、何か動きがないかどうかを見ています。興味が出るものがあったら、そこに過集中、周りからすると危なくてしょうがないし、ものすごく疲れてしまうような日常を送っているようです。 

パニックになる場合

 ASDもADHDも、パニックになりやすいようです。それぞれに理由がありますが、たいていは、「自分の思った通りにならないから」のようです。ところが、周りの人の感覚とはずれています。一般的な判断をしなければいけない時に、ASD、ADHDの人と一致していない場合、よくわかっておらず、変更されてしまった場合、ついていけなくて、かなりの不安となり、時と場合によってはパニックで言い張ってしまうこともあるようです。

 パニックになった場合は、しばらく静かな場所で一人にさせる。そのあと、簡単な注意をする。決して、相手の言いなりにはならない。どうして問題が起きたのかの説明をする。などを繰り返すしかないそうです。

 パニックには予防が必要なので、今後の予定表、日程表を渡す。変更がある場合は、その都度、短めに伝えておく。などの工夫が必要になりますが、これも、発達障害の人が自覚がある場合に限るようです。自覚がない場合は、「嫌だ」「絶対こっちじゃないと嫌だ」と言い張って、収まらないことが多いことは、たくさんの書き込みで、いっぱい事例が載っていました。「絶対にこっちじゃないと嫌だ」「お前のほうが間違っている」「お前は無能だ。言うことなんて聞くか」「失敗したじゃないか。俺の言うとおりにしておけばよかったんだ」なんて言われてしまうことまで書かれてありますが、言うとおりにしても失敗しますので、発達障害の周りにいる「周辺者」は困ってしまうだけです。この場合は、できるだけ距離を取り、最小限のことだけにとどめておいた方がいいようです。でも、そうはいっていられない関係の場合も多く、「周辺者」は疲れ切っているケースが多いようです。

 思った通りにならないと思い込んでいるケースの中には、勝ち負けにこだわり「自分が勝つと思っていたのに、どうして?」「おもちゃを買ってもらえると思ったのに、なぜ、買ってくれないんだ」など、子供の事例などは、本や資料に載っていますので、それを参考にするのもいいかもしれません。大人になっているからといって、感情処理は子供のままの人もいるようです。

話がコロコロ変わる理由

 ASDの人の特徴で、突然の変化に弱いというのがありました。ところが、会話をしている間もキョロキョロしていたりして、会話がコロコロ変わる。そういうのもあるようです。キョロキョロする理由は、視野が狭いからと、次々、いろいろなものを見て、興味の対象が移りやすいかららしいです。
 書き込まれている情報の中に、「ご飯を食べた。ふりかけが欲しい。そういえば、ふりかけと言えば、カツオ。カツオと言えば海。海、いいなあ。ああ、最近、旅行に行ってないな。どこに行こう。疲れたな。お酒でも飲もうか。あ、テレビがうるさい。ああ、でも、今度の日曜日には、忙しいからいけないし」と次々、考えが移っていくらしく、いくらなんでも、話が飛びすぎて、一般感覚を持っている方は「なぜ、そこまで話が飛ぶのだろう?」と不思議です。でも、これが、いつも、脳内で起こっているそうです。中には、聴覚、触覚などの五感が過敏すぎる方も多いらしく、耳栓が普段から必要だという人も多いようで、驚きました。ボリュームが大きすぎるように感じる日常だそうです。そういう状態じゃない人でも、興味の対象が次々変わり、一日中、ほぼ、脳内が休まらないという方もいました。

 ここまで、たくさんの情報が脳内に飛び交うために、話がコロコロ変わりますが、相手の会話には当然ついていけず、自分が話す方が落ち着く状態になるようです。だから、こういう状態の人と、合わせるというのは難しいため、何かを一緒に決めるというのは難しくなります。自分の性質を知っているのなら、ソーシャルスキルトレーニングを始められますが、そうじゃない場合は、どうしていいのか、周りの人も困ります。自覚されているかどうか、お話を聞く気があるかどうかまで考えて、相手と会話しないと難しそうです。

意識しないでいい部分を気にしてる

 一般人でも多いのですが、「そこはスルーしよう」という取捨選択ができないケースもあります。人によっては、言葉がわかりにくく、会話がスムーズに行えないのは、障害があってもなくても、よくあります。一般感覚のある、症状が出ていない定型発達の人は、どうしているかというと、「この言葉は聞き流したほうがいいな」という言葉はスルーしています。ところが、ASD、ADHDの「当事者」の書き込みを見ていると、いちいち気にして、突っかかっています。たぶん、まだ、自分の症状のことも知識不足だし、その症状を「周辺者」がどうとらえるかということも、知らないために、「あなたたち、ひどいわよ。失礼よ」という書き込みで、アスペルガーの当事者に対して、困っていることを話しあうような書き込みの場で、自分の主張を書いているのも見かけます。そして、書き込み方が、ものすごく難しい言葉が使ってあって、問題の論点がずれていて、というものが多いです。

 発達障害の人と、発達障害の人以外の人は、そもそも話し合うのが困難だからこそ、トラブルになりやすく、障害の症状の勉強をしていないまま、感情の処理も、学んでいないままでは、言い合いになるだけのようで、どちらのマニュアルも、まだまだ、整っていないのが現状です。理由は、発達障害のことについて、法律が変わって、発達障碍者支援センサーができて、まだまだの状態だからのようです。

 大人向けの感情処理も含めたマニュアルがあったら、たくさんの人が助かるような気がします。ソーシャルスキルトレーニングの本などには、「アスペルガーのことで、怒ってもトラブルが続くだけです」程度の文章で済まされていますが、ほとんどの皆さんが一番困っているのは、対応方法ではなく、自分の障害の状態、障碍者との感情の落ち着かせ方のほうじゃないかと、書き込みを見て、いつも感じます。

 感情処理のほうは、マニュアルよりは、発達障碍者、発達障碍者の家族などが書いた、自伝本のほうが役立つかもしれません。自助会に参加するにも、不安も大きいし、言うのも、どうかと考えるだろうから、なかなか感情処理は難しいのが実態のようです。
 専門家が書いた、実態本を読み、発達障碍者たちの目線で描かれた自伝本を読み、そうやって、相手の感情を知って、気持ちを落ち着けるのに使うのもいいのかもしれません。

 発達障害の「当事者」のほうは、共感する部分が弱いため、発達障害者の家族の書いた自伝本は、読むと傷つきやすいかもしれないので、気を付けたほうがいいかもしれません。「当事者」が傷つく心をいやすには、精神科医やカウンセラーにお願いしたほうがよく、障害の症状をしっかり知って、そして、周りがどう思うかを無理しないで、把握して、対応方法を学んで、トラブルを減らしていくしか方法がないようです。自分の障害のつらさを、わかってもらいたい場合は、発達障害の症状に悩んでいる「周辺者」には、求めないほうがいいようです。

障がい者を意識していない人が多い

 日常生活で、障がい者と明らかにわかる人がいる場合、多くの一般人は、あまりじろじろ見てはいけないと思い、意識しないようにします。学校でも、職場でも、公共の場でも、見ることはしません。よって、観察するということは失礼になるために、どんな症状があるかを、知らないまま大人になっている人のほうが多いです。学校に特別支援級があったり、養護学校が近所にあったりすれば別ですが、ほとんどは実態は知らないと思ったほうがいいようです。

 実際に、初めて「アスペルガー症候群」と聞いたとき「ADHD」と聞いたとき、名前だけで、イメージがほとんど、わきませんでした。インターネットでは、あまりよくない意味で、本来のイメージと違う意味で描かれているらしいですが、よくわかりません。本来の症状と、インターネットでの「アスペ」と書かれているものが違っている気もします。実際のアスペルガーの症状を知っていくうちに、さらに訳が分からなくなっています。理由は個人差がありすぎるから。本には「小さいころから神童だった」「めちゃくちゃお勉強ができる」というイメージで描かれているものも少なくありません。実態は、「そんなに勉強はできたことはない」という人の書き込みもたくさん見られます。知能指数は、80ぐらいから130ぐらいまで、開きがありすぎるようです。そして、その知能で、実際に動くときに、うまく、知能を生かせないから、難しくなると書かれているものも多いようですが、ここも個人差がありすぎるようです。

 アスペルガーと自閉症の違いも分かりにくいです。自閉症というのも、名前は浸透しつつあるようですが、実態は難しくて、漠然としたイメージで、映画やドラマで触れた程度しか、一般人は知りません。

 ADHDのほうも、発見されるまでは、元気が良すぎる。走り回りすぎる。抑えられない。やんちゃすぎる。など、たくさんの部分が人によって違うようです。鍵、携帯、財布、眼鏡などを、ひと月に何回も失くす。という人までいるようですが、「そういうことはほとんどない」という人まで、色々のようです。

 一般人に浸透率が低い理由は、ほとんどの人が、実態を知らない状況のまま大人になっているからです。ボランティア活動が盛んな、欧米と違って、日本人は、そういうことに対して、積極的に手伝うより、「ご本人の問題だから」と様子を見て、距離を取ります。手伝ってほしいと言われても、自分の時間を考えて、無理はしないで手伝う程度になります。

 ところが、発達障碍者の人は、大人になってから発見される人も多く、トラブルだらけで、傷ついた心のまま、診断を受けると、誰かにすがりたくなります。でも、それを理解してくれる人は、同じ症状を持った人ぐらいで、診断が同じでも、症状が違いすぎて、知能指数も、取り組み方も、育った環境も違うので、なかなか共感しあえる関係も作れないし、アスペルガーに至っては、相手の立場になることが、そもそも、難しく、周りの人もかかわれないようです。

 障碍者である自分をわかってほしいというのが、アスペルガー、ADHDの人の書き込みに多いですが、こういう実態なので、わかってくれるのは、発達障害のことに詳しい人と、同じ症状で悩んでいる人だけになることは、知っておいた方がいいと思います。

 発達障害の近くにいる、家族、同僚、友達など「周辺者」も同じで、ほとんどの人は、発達障害者の実態は知らないので、「気にしなくていいよ」としか言ってもらえず、共感はしてもらえるのは、同じ立場の人だけになりますが、それも、環境も、症状も一人一人違いすぎて「私のほうがもっと、大変なのよ」と思ってしまいがちですが、症状が大変なのを言い合っても「私の方だって、もっと」となりますから、ある程度の割り切りが必要になるようです。

 割り切るまで、気持ちの問題ですから、相当、時間がかかるようです。障害を受容するのは、ものすごく時間がかかるのは、そういう実態だからのようです。

 この状況をよくするには、行政の取り組みが変わるしかなく、幼稚園、小学校で、障害が見つけやすい状態にしていくしかなく、学校での取り組みも、専門家を派遣して、サポート体制を変えて。欧米のように、取り組んでいき、そして、その状況で育った人の数が増えるまでは、難しいようです。

 このページは、アスペルガー表記のままにしてあるます。知った当時は、アスペルガーという名称で知ったからです。

大人の発達障害でも、感情処理は、子供用のマニュアルを

 大人になるまで発見されにくい発達障碍者も大勢います。最近になって、発覚するようになったのは、行政の取り組みが変わったからです。法律が変わり、子供のほうが発見されやすくなり、その親たちもついでに発見されることになり、仕事場でも、知られるようになって発見されるようになり、でも、精神科医や、臨床心理士の人も、専門知識を持っている人は、まだまだ少ないため、見てもらえる状況にはなっておらず、受け皿がまだまだのようです。
 診断だけはしてもらったけれど、あとは自力でと言われるケースもたくさん書き込みされてしました。それでは、家族も仕事場の人も、ご本人も「???」となり、何の改善にもなりません。そして、詳しいマニュアルさえ与えられず、手探りでやっていくこととなります。

 まず、症状に対して、詳しく知るところから始めないといけないし、対応策も学び、でも、障害を受容するまで時間がかかり、その障害に向き合っても、できないことも多いし、お金はかかるし、ため息をつきたくなることばかりが続きます。感情処理がもともと下手な発達障碍者には、大変な作業となり、そんな発達障碍者の脳の症状は、一般感覚を持っている「周辺者」も戸惑うばかり。「え、なんで、ここで、そんな変な言葉が出てくるの?」「いったい、なぜ、そんな変わった行動をするの?」と思いますが、答えはすぐには見つからないものです。

 大人になっているから、外見でわからないため、「周辺者は」大人として扱ってしまっているために、対応策と「当事者」の心が合ってないことも多いようです。
 マニュアルは大人向けと子供向けがあります。両方を参考にしたほうがよく、特に、感情の処理のほうは、幼稚園や小学校までさかのぼって、調べたほうがいいケースも多いです。そこだけが成長できなかったというアンバランスな脳であることも多いからのようです。

 感情処理が、子供と同程度かもしれないと予測して、提案してみる。説明をわかりやすく、発達障碍者向けにしてみる。などの方法を取り、様子を見ていく方がいい場合も多いようです。

 勝ち負けにこだわる。リーダになりたがる。癇癪を起す。言葉が出てこない。返事がなくのんびりしている。会話で間違った解釈が多い。暴力的な言葉を言ってしまう。など、たくさんのケースごとに書かれているマニュアルもたくさんあります。どんな感情で、そうしているのか、子供の心が解説されているものを読み、できないことが多いのだと理解して、進めていく方が安全のようです。

 見た目が大人になっていても、その年齢まで、症状が残っているということは、そこだけは、発達障碍者がわかるような説明をしてもらう機会がなかっただけで、わかるように説明したら、理解できるかもしれない。という可能性も残されているため、子供向けのマニュアルを参考にするのもいいかもしれません。

短い指示を数打って、当ててみよう

 ADHDの「当事者」の人が、説明してあることを「聞いてないよ。早く言っておいてよ」という場合があります。この場合、いくつかのケースが考えられるそうです。文字通り、相手は話していたけれど、耳には届いてない。この場合は、集中力が途切れていて、飽きっぽいので、聞いてなかった。
 聞いてはいたけれど、覚えていられなかった。この場合は、一応聞いているのだけれど、すぐに忘れてしまいやすい脳の性質によるもの。
 途中まで聞いていて、途中から聞いてなかった。この場合は、推測して、結論を脳で勝手に出してしまうため、「どうせ、こうなるから、面倒だから流そう」これらのことが重なると、一般的な脳の働きをする「周辺者」のほうは、「いったい、この人何?」「相当、いい加減な人だよね」となり、そのうちに、かかわりを持たなくなります。共同作業も避けたほうがいいし、一般会話程度なら、何とかなりますが、決断するような話し合いは、まず、危なくてできません。

 これらを防ぐには、ADHDの「当事者」がまず、自覚を持つこと。そして、自分の脳で起きていることの仕組みを把握してもらうことになります。これらを素直に「やります」というADHDの「当事者」は、まずいないそうです。そういう人は、小さいころに、自分の問題点が矯正されて、目立たなくなっているために、症状が残りません。ものすごい気になるぐらいまで症状が残っている人たちは、たくさん注意されたのに、すべて流してきた「強者」になります。相当の頑固脳ですから、まず、ちょっとやそっとで、「治すね」「取り組むね」には、ならないそうです。中には、「なんで、私がこんな目に遭うのよ。まあ、いいや、相手が悪いのよ」とさらに流してしまう「強者」もいるため、このタイプは、付き合う方も適当にあしらうようになり、共同作業をしてくれる人、フォローしてくれる人は残らないそうです。家族や仕事場の人間は、逃げられませんから、フォローしないといけない立場の人が、ため息とイライラの連続となるようです。そういう人に、「周辺者」は付き合っていられませんから、「この人は直らない人だ。取り組まない人だ。自覚もない人だ。面倒な人だけれど、さて、どう付き合おうか?」と考えて行動するしかなさそうです。

 思った通りになると思い込んで、聞いてない。そういうADHDの「当事者」の場合は、「思った通りにならないケースもあるんだよ」とあらかじめ説明しておく必要があります。一回では、まず、聞かないらしいです。「数打てば当たる」方式で、短く説明して、忘れていたころに再確認を複数回行い、それでも直らないぐらいの頑固脳が、ADHDの人の脳の症状のようです。

 いったい、どれぐらい打てば、響くのか、個人差があるようです。

期間の目安

症状の理解
 自分の症状を知り、具体的に、何が苦手、何が得意、どんな問題が、どうしたらよかったか、など、漠然と理解するまで一年は見たほうがいいそうです。

認知行動療法
 ASD、ADHDの症状がない人でも、効果がわかるようになるのは、早くて3か月かかるそうです。症状がある人の場合は、慣れるまで、かかりますし、効果が見えてくるまで、一年から二年は、かかると考えたほうがいいそうです。

SST
 デイケアなどに通って、ソーシャルスキルを学ぶようですが、個人差が激しいそうです。ASDで、学力が高い人は、早いようですが、知能指数の差が激しいのと、理解できても、どうしてもできない人もいるようです。これは、かなり時間がかかると書いてあるものが多いので、目安期間がわかりません。

気持ちの整理
 こちらは、自覚がどの程度あるのか、割り切り度がどの程度なのかで違ってくるそうです。「当事者」の方のほうが、すんなり割り切ったというケースが多いようです。割とすぐに切り替えましたという人もいました。でも、切り替えたつもりでも、実際に、できないことの現実と仕事、日常で、また、落ち込む人も多いようですし、ASD、ADHDで、そもそも、困ってなくて、「周りが悪い」と思っている人は、整理するまでもなく、自覚することもないまま行く方もいらっしゃるようです。
 「周辺者」は、離婚しても、配偶者、子供の発達障害を受け止められない。認めないという人もいるようです。受け止めるまで、ものすごくかかる人も多く、目安として、ASDの場合は二年ぐらいは見たほうがいいそうです。ADHDのほうは、お薬の効果によって、違ってくるので、何とも言えないようです。効果が出て、その間に、SSTもして、イメージトレーニングをして、劇的に変わりましたという「当事者」なら、気持ちの切り替えもできますし、「周辺者」もわかりやすい効果によって、気持ちの切り替えがしやすいようです。お薬の効果がなく、一年前と同じことを怒られ続けて、それが続いて、ものを失くすのが、ずっと続く。部屋が片づけられないまま、提出物を忘れた。支払いを忘れた。大事な用事を忘れた。というままの人もいるようです。そうなると「当事者」「周辺者」がどの程度で、割り切るかで違ってくるようです。忘れやすい性質をどうするか、周りのサポートがどうなるか、金銭管理なども関係あり、個人差が激しく、一生、治らないままの人もいるようです。

カサンドラのPTSDの整理の仕方

 発達障碍者の裏切りや、トラブル続出は一般的ではありません。原因があって、取り除く方法がわかり、というものではないので、整理がつかないと思います。トラブルだらけで、気持ちがどうしようもないぐらいの、ものすごい嫌なことをされても、それを止める方法が難しいからです。
 一般的だと、止められるか、止められないかが、なんとなくわかります。浮気だったら、「この人は懲りないだろう」というのがわかりますから、だいたいの目安ができます。やってしまった後も、謝ってくれたり、開き直ったり、色々なパターンがあり、でも、気持ちの整理がつかなくても、相手の反応がわかりやすいため、気持ちの整理に時間はかかっても、それなりに決着がつきます。
 ところが、ASD、ADHDは、脳の性質によるもので、本人に悪気はなく、衝動的に、本能的に、どうしても、それをしてしまう性質による症状になります。そして、それを自覚しているか、していないかによっても違います。説明だけで、ものすごく時間がかかります。ある程度、症状を理解している発達障害の「当事者」なら、時間をかけて説明していけば、何とか理解しあえるところまではいかなくても、収まりはつけられるかもしれません。ところが、自覚がない、もしくは、自覚していても、説明を聞いても、すぐにはわからなくて、言い張る「当事者」が多いのです。理解するまでに、ものすごく時間がかかり、謝らないで、そのまま。これでは、カサンドラ症候群状態の、「周辺者」は気持ちの整理などつけられるわけもなく、そのあとに、さらにトラブルが続いて、イライラしてしまうだけになります。

 この期間、しばらく距離を取り、無理して付き合わないほうがいいですし、相手が「謝ってくれたら」という気持ちは捨てたほうがいいらしく、「理解して謝る」ということはなく、パターン化で「謝ったほうが、一般的なんだな」という対応のマニュアル化による、言葉では、「周辺者」は、うれしくはないので、難しくなります。そんなことが続けば、イライラします。
 距離を取りたいと思っていても「当事者」のほうも、それまでやってくれたこと、してくれたことが、「周辺者」にしてもらえなくて、不安も重なり、イライラしだします。この期間は、とてもじゃないですが、話し合いもできませんし、難しい状態になります。お医者さんに相談したほうがいい場合も多いようですが、心の整理をしながら、症状の勉強もして、理由もお互いに理解しながら、認知のゆがみのことも、考えていきながら、進めるようですが、残念ながら、「当事者」が積極的に、医者に掛かって、自分の症状に取り組むということは、あまりないそうです。ほとんどが、相手に悪いと思ってない人、状況もわかってない。そういう人ほど、しつこいまでに、「周辺者」にお願いしたり、かかわりたがったりして、大変になります。

 症状の把握だけで、一年は見たほうがいいという目安があるようです。それぐらい、症状は多岐にわたり、一つの行動の意味を調べるだけでも、時間がかかるようです。すべての行動の意味が大体わかっても、そこから対応を考えていき、SSTをしていくことになるようですが、同時に、「当事者」「周辺者」の心のケアも必要になります。「当事者」は自分の症状を受け止めつつ、それでも、日常でできないことが嫌になりますし、「周辺者」も、行動の理由が分かったところで、受け止められない、もしくは、いやになることも多いようです。

 認知のゆがみの見直しに、認知行動療法を使うケースも多いようですが、落ち着くまで1~2年はかかるようですから、そこも時間がかかります。障害を受け止める時間も個人差があり、受け止めても、何度も嫌になりながら気持ちを立て直し、症状の対応を一通り学んで、気持ちが落ち着くまで、数年はかかるようです。

 カサンドラの場合は、当事者の自覚と、症状に取り組んで、落ち着いてからじゃないと、PTSDの状態は改善されません。つまり、一般よりも時間がかかるようです。その間、無理はしないほうがいいようです。ときに立ち止まり、無理をしないほうがいいようです。

「めったなことは起こらないよ」と脳を納得させて、安心感を得ると、PTSDは和らぎますが、ASD、ADHDの「当事者」は、トラブル続きで、「めったなことだらけ」の状態の場合も多いので、いやな気持が重なっていき、大変になります。症状を自覚してもらって、対応にめどがついてから、カサンドラの人の癒しが始まることになるようです。

お互いに苦しい

「当事者」「周辺者」の両方の書き込みで多いのが、「私たちが困っているのに気づいてほしい」「私が苦しんでいるのに気づいてほしい」「トラブルが多いのを自覚してほしい」「できないのだから、あきらめてほしい」「できないからと言って、何もかも、手助けできない」

 こんな言葉がたくさん並びます。お互いに、相手が合わせてほしいという要求です。一般的な人とのやり取りなら苦労しないと思ってしまいやすい「周辺者」。できないのに要求されても、できないのだから、だれか、救ってほしい、理解してほしい、私に合わせてほしいと願う発達障害の「当事者」お互いに、気持ちはすれ違う要求になっています。こういう場合は、とても難しいようです。

 お互いに、苦しい立場であり、相手の立場まで見えるのは「周辺者」ばかり。「当事者」で、自覚して、周りの状況の理解を少しずつ深めて、でも、それでも合わせられないという「当事者」の方も、稀にいるようですが、インターネットの書き込みの場合は、「うまくいってますよ」というものはほとんどありません。そういう人は現実に満足しているので、書き込む必要がないからです。困ったことを、どこに相談していいのか、難しい問題で、だから、匿名のネットで書き込んで、答えを求める人が多いようです。

 困っていない発達障害の「当事者」は症状が軽く、社会に溶け込んで、だれかが助ける人がいて、日常でものすごい問題になるところまではいってなくて、自覚も弱いから溶け込んでいる、そういう人なのかもしれません。

 書き込んでいるレベルの人は、困っている人ばかり。溶け込みたい。でも、小さい時に発覚したのならいいけれど、大人になって発覚して、「いったいどうしたら? こんなに苦しいから、だれかわかって、私をサポートして」と思って書いている、「当事者」の書き込みが多いようですが、障害が出ていても、知的障害が伴わない場合は、「ある程度のことは、自分で処理をしましょう」というのが、一般的な基準のようです。

 でも、実際は、複雑です。自覚がある、ない。症状が軽い、思い。周りのサポートがある、ない。困っているのは、「当事者」か「周辺者」か。この辺で、全然違ってきます。

「当事者」のほうは、「俺たちに求めないでほしい」と思っているようですが、社会の仕組みでは、求められる方が自然となり、できない場合は、「当事者」自身が、自分で工夫して、周りに合わせられないまでも、対応を考えていかないといけない状況が多いようです。

 「周辺者」のほうも、わかってもらえないことが多いです。それは、どこか他人事で、発達障害の実態が、社会に浸透していないため、困難さは、実際に経験者しかわかりません。言葉で聞いても伝わることはほとんど無理のようです。ところが、一度でも経験したら、「これは大変だ」とわかるのですが、「周辺者」は、自分のことでも大変で、実際に「当事者」がトラブルを続出すると、いやになり、距離を取り始めます。

 お互いに苦しい部分を支えあうのは難しくなる状況は、社会的に認知が低いから。そして、行政の取り組みがまだまだで、学校や職場での相談窓口もなく、サポート体制も弱いからです。

 コミュニケーションが取れない、失敗が多すぎる。そういう人を支え続けられなくなるほど「周辺者」は追い込まれやすいです。お互いに苦しいので、できるだけ、無理をしないこと。支えてくれるのは、お互いの立場を知っている人で、余裕がある人だけなので、色々な人に助けを求めても難しいことを理解して、うまく気持ちを切り替えていけるようにするのを、自分の環境づくりをするしかなさそうです。

 サポーターがたくさんできるような社会の仕組みができていない以上、自分で考えて行動するしかないので、無理は禁物です。

〇〇だから注意してねでは、無理。

「〇〇だから気を付けて」なにを?
「▽▽だから、確認してね」え、どうして? と思うのが、ASDだそうです。

 気を付けての前に固有名詞や目的語がいるらしく、それを省くのが日本語。つまり、目的語や固有名詞などは省いてはいけないらしく、そして、わからないのに、「そのままにする」のがASDの「当事者」の人に多い。その間に、次の指示が出ていたり、指示した人はいなかったりするので、間に合わないなんてケースも多いそうです。

 これらのことに気づくまで、大人になるまでわからない人も多いようです。理由は、流すから。もしくは、流されるから。「また、なんだ」「この人に頼むと、失敗するからやめよう」「この人は、天然だからきづかないのか」となり、本人にそれを、わざわざ言わないのが日本人。外国人だと指摘されるケースが多いらしく、だから、発達障碍者は、日本人のほうが、コミュニケーションが難しいとも言われているようです。

「具体的な固有名詞を言ってください」「目的語を省略しないでください」「5W1Hで言ってもらった方が、理解できます」と自分から言っておいた方が、安全ですが、周辺者のほうは、つい、普段のつもりで、それらの言葉は省略します。わからないのなら、「当事者」のほうが、言えたら、トラブルは減るかもしれません。

自己他者同一化

 ASDの症状の中に、「あなたに言ってないけれど、私の考えは、すでに知ってるよね」という感覚を持ち続けたまま大人になってしまっている人がいるそうです。子供のころに、自分と他者の区別がつけられないまま、なんとなく、周りの言葉を受け流しながら、生きてきて、相手に説明もしていない、言葉で伝えてもいないまま、「なんでわからないのよ」という感覚で言い張るところが残ったままの人がいるらしく、一般的には、こういうタイプは、自己中心的行動とみられて、「私に合わせてほしい」という言葉にしか聞こえず、一般感覚で考える「周辺者」は、「???」のままになるらしいです。説明と了解はいらない。テレパシーで伝わっていると勘違いする感覚を持ってしまう症状だそうです。自己他者同一視という状態だそうです。

 たくさんのトラブルから、そういう行動をする人だと、ASDの「当事者」は周りの人から思われるけれど、自閉症の特有のこだわりなどは、「周辺者」はそのまま受け入れることができないこともたくさんあるため、「なんでわかってくれないのよ。私が困っているのに」と「当事者」は言い続け、「周辺者」は、「なんで、この人は、訳の分からないことを言い続けるのだろう?」となり、距離ができていくようです。

 この部分を埋めるには、「当事者」「周辺者」が、症状の理解をしていくしかしょうがなく、それが大人になってからの発覚した場合は、「大人なら、この程度はできるはず」という固定観念を捨てないといけないようです。
 こういう場合は、子供の発達障害の症状の本を読んでみて、「子供だと、こういうことをするのか、それが大人になったら」というので、考えてみるのもいいそうです。いきなり、大人の発達障害の本を読んでも、一般人とどこが違うとなってしまうようですが、子供の発達障害の実態を見て、それで、そばにいる「当事者」は、これのどこの部分がのこってしまっているのだろうか?と考えていくのも、いいようです。

 ただし、自閉症の症状が重い人の中には、自分の状態に違和感がない人も多く、常に被害者意識が強すぎて、周りの人の言葉も優しい言葉以外は受け止めず、自覚がない人もいるために、自覚が出る状況まで、待つしかしょうがない人も多いようです。自覚が出る状況というのは、ものすごいトラブルになる、たくさんの人に、「迷惑だ」と言われるぐらいの状況になる、などまでいっていることも多く、大変な状態になっていて、修復も不可能な状況になっていることも多いようです。その場合は、あまりに難しい時は、距離を取ったほうがいいでしょうという「専門家」も多いようです。

相手に望まれても

 発達障害の「当事者」は不安が付きまといます。そのせいか、何かと頼ろうとする人も時々いるようです。その望みの内容は、一般的感覚があり、意思の疎通が図れる相手なら、何とかなる場合も多いでしょうが、この「一般感覚がずれる」という部分がとても重要で、その部分で、意思の疎通は図れず、共同作業をするのも、一緒に判断するのも、会話するのも、難しい症状レベルの人も多いようです。症状の勉強を「当事者」がどの程度できているか、自覚があるか、今後、「当事者」がどういうことをしていきたいと望んでいるのか、など、「当事者」にも事情があるとは思いますが、「周辺者」は、無理して合わせる必要はないというのが一般的です。

 「当事者」の外見で出ていないため、「周辺者」がつらい状態になることは多いですが、望みをかなえるために、自己犠牲はしないでくださいというのが、発達障がい者のそばにいる家族は同僚、友達などの「周辺者」の立ち位置になります。サポートしすぎもダメ、望みをかなえる必要もなく、お金の問題も片づける必要はなく、問題が出ていたら、発達障がい者の「当事者」が、お医者さんと相談して、本人が考えていく範囲と思っていないと、大変になります。

 配偶者、親、兄弟だと、この部分が違ってきます。発達障がい者が未成年で、親である場合は、たくさんの責任が伴いますが、それ以外だと、無理して、やらなくてもいいというのが一般的だそうです。「知的障害を伴わない」ここが一番、大きな理由らしく、これがないため、成年後見人みたいなことを望まれる発達障害者の「当事者」の書き込みがちらほら見えますが、それらは、ご本人が、行政やお医者さんと相談して、自分で考えてもらわないと難しいようです。発達障がい者のご本人が、支援員、ケアマネージャーなどと相談してもらって、考えていかないと難しいようです。ただ、症状が重すぎたり、自覚がない発達障がい者もいますのでケースバイケースで考えていかないと難しい部分もあるようです。

 症状が重すぎる場合、どうしたらいいのか、迷いますが、症状の勉強を、「当事者」が自分で理解していく覚悟がないと、難しいらしく、ご本人がどうしたいのかさえも、わからなく、「迷ったまま」の状態の人とどの程度の距離感で、考えていくのかは、事態がわかっている、「周辺者」が決めていき、望みをかなえないとと思わないほうがいいようです。

成長しない人を助けられるかどうか

 たくさんの書き込みで、「ちゃんと成長してくれています」というのは、稀で、たいていは、「いくら言っても、聞いてくれません。理解してくれません。直りません」というものばかり。
 少しでも良くなってくれたらという願いを持っても、自覚がない人の場合は難しいようです。自覚がある人も、成長は遅い方が多いようです。

 こういう場合の「専門家」の指導は、「成長しないままの人を、トラブルだらけの、助け甲斐のない人を、助けたいかどうかを決めるのは、あなたです」と書いてあります。
 ものをなくし続ける人、言っても言っても、聞かない人、かみ合わない会話のままの人、失敗のフォローをしてもらいたがる人を、助け続けることは、とても、大変です。
 
 助けたいか、距離を取るか、成長しないままだと、そのうちに、いやな気持になる場合が多いようです。途中でごまかしながら、同じような境遇の人と、気持ちを分かち合いながら、何とか生活している人も多いようです。お医者さんに行っても、環境づくりの指導がしてもらえるだけで、ADHDの場合は薬を使われることも多いようですが、ASDだと、イライラや抑うつなどの状態の気分を変えるのにお薬を使う程度で、根本からは直りません。

「相手に悪いと思っている」という書き込みをされている当事者も何人かいますが、多くは、「なんで、私がこんな目に。一生懸命頑張っているのに」というのが多いようです。
 中には、自分のほうが、被害者のようにふるまっている書き込みの内容が、「あれ?」というのも見かけます。「当事者」は違和感がないようですが、読んでいて、違和感だらけで、この人では、トラブルだらけになるだろうというのが、文章だけでわかる人もいます。でも、本人は真剣に「周りから嫌がらせを受けました」と書いてありましたが、内容は嫌がらせではなく、一般的な感覚からすると、ただ、「嫌だ」「不快です」ということを言われた程度のものでしかないものもあり、「当事者」と「周辺者」の埋められない認知の違いに驚きます。

 「当事者」は怒られ続けて、被害者意識は強くなっている人も多く、そのため、過剰に受け止めてしまい、一般感覚を持っている「周辺者」からすると、「それは、発達障害じゃなくても、言う人はいるので、流して考える。いちいち、受け止めない。スルーする」というのも、いちいち、真に受けています。真に受ける部分は障害の症状にありますから、そこもお医者さんに指導されているはずでは? と違和感がありますが、なかなか、浸透していないのかもしれません。障害の症状の勉強をしていても、説明してもらって、初めて、「そうなのか」と気づくらしいですが、「周辺者」は、「それぐらい気づくよね」と思ってしまいがちです。

 感覚の違いは埋められず、「なぜ、このぐらいのことができないのだろう?」「わからないのだろう?」とつい思ってしまう感覚を「周辺者」は持たなくなるまで、時間がかかるようです。

 自閉症の子供の成長記録などを読んで勉強すると、参考になると書いてある人もいました。症状を理解しながら、歩み寄れるのは「周辺者」のほうになりますが、無理はしないほうがいいようです。

習慣化する時間は?

 SSTをしているという発達障碍者の人も多いようです。人によっては、「一年以上言われ続けてよくならない」という人や、「少しずつ症状が減りました」という人まで、さまざまのようです。

 習慣づけられる目安はどの程度かというと、3週間から4週間かかるそうです。つまり、そこまで、やり続ける必要があるようで、一か月は様子を見て、定着できたら、「おめでとう」となり、できなくても、「また、がんばればいいよ」ということになるようです。

失くしものが多い

「携帯を、年に、何回も失くしました」「財布を落としました」「予定を忘れることはしょっちゅうです」などが多いのが、ADHDの症状のようです。ところが、ここも、個人差があり、物はなくさないけれど、話が聞けないとか。話は聞いていられるけれど、まとめられないとか、個人で症状が異なるようです。そして、対応策も違ってきます。
 最後まで話を聞いていられない人の場合は、あらかじめ、
「私、長い話を聞いていられないので」と断っておくほうがいいようです。「5分までにして」と頼むか、「メモを渡してもらえると助かる」とお願いするのがいいようです。

 物をなくす人の場合は、場所の定位置を決めておく。失くしやすいものトップ3ぐらいまでは、定位置に戻せるように普段から、訓練するのがいいらしいです。「スマホ、財布、鍵」が多いようです。

 聞いた内容を覚えておけない、まとめられない。の場合は、5W1Hのメモを用意して、書く。


 これらのことは、「当事者」の人が、自分でできるだけしていかないと、「周辺者」は困ります。ときどき、書き込みに見られるのが、「周辺者」がメモを渡してくれない。「周辺者」が言い忘れたんだ。と「当事者」が思い込んでいるケース。この場合、ADHDだけなら、説明したら、そのうち、「ああ、自分のほうに問題があったんだ」と気づけるようですが、ASDの症状から来るものだと、違和感がなく、「~するのは、相手であり、自分ではない」という思い込みだらけで、自分の思った通りにならないことに対して、「相手が悪い」と言い張り、その部分の認知のずれを埋めるだけで、何度も何度も説明しないとわからない、もしくは、聞く耳を持たないというケースもあり、そういう人が、「相手が管理してくれたら、なにも困らない」「相手がやればすむ」と思い込んでいる人もいるらしいので、こういう人の場合は、手助けしていくときりがないため、自分や周りにものすごく迷惑がかかりそうなところだけ、予測して予防して動く以外は、できるだけ距離を取ったほうが安全なので、「時には逃げてください」という指導がお医者さんから出されるケースもいくつかあるようです。

学校でサポート支援室があったら

 色々な場所の投稿を見ていて、よくあるのが「ほかの人と同じようにしたいのに、できない」ということ。次を予測して動くとか、相手の立場に立って動くとか、提出物を間違いなく期限通りに出すとか、発達障碍者の「当事者」は、どうやってもできないことがたくさんあります。支援の方法が、まだ、しっかりと確立していないのが現状です。大手の企業や、医療や福祉関係、有名な大学などでは、支援の方法を取り入れるところもあるようですが、小さいところだと、ほとんど行われず、「なんで、ほかの人と同じようにできないの?」ということがたくさんあるようです。ジョブコーチがつけられるのも、たくさんの手順を踏んで、基準を満たして、回してもらうということも可能になる程度で、難しい問題がたくさんあるようです。

 こういう時にいつも思うのが、個人レッスンを、付きっ切りでしてもらえる支援を小さいころから、発覚した時点で、してもらえたらと思います。家庭教師のように、苦手な行動を、近くから見て、直接、その人に合ったやり方を、組み立ててもらい、あとは、それに従って、行動していく方法ができていたら、助かる人がたくさんいるのではないかと思います。

 小学校から大学まで、一律で、発達障碍者の支援システムができていたら、個人レッスンがなくても、発達障害者が、どうしてもできないことの範囲などが浸透するような気がします。提出物の管理は、個人で、どうしても行えない。日程調整や、体調管理などのサポートを指導をしてもらえるだけで違う気がします。常駐じゃなくても、いい気がします。月に一回だけでも、支援室での相談ができるだけでも、違ってくるような気がします。担任の先生も相談できますし、親も、子供も安心です。学校での浸透が、社会の浸透につながる気がします。そういう時代が来ることを願っています。

どの行?

 本、資料を読めない発達障害者がいるそうです。ものすごい抜群の記憶力に、国立大学を出ているなんて言うASDの「当事者」がいる反面、そうじゃない人もたくさんいるそうです。個人差がありすぎるのが、発達障害の「当事者」の人たち。本を読めない理由は、行が飛ぶらしいです。「どこまで読んだっけ?」になるそうです。それだと、発達障害の知識を深めることさえ一苦労です。たくさんの情報が並んでいると、どう整理したらいいのか、わからない。という人も多いようです。先生がまとめて、授業をしてくれる学校とは違い、発達障害者知識の学校は、SSTのセミナーぐらいしかなくて、要点をまとめて、自分に必要な部分だけを教えてくれるなんてシステムはなく、家庭教師のように精神科医の先生に教わりながら生活していくという方法を取らないと難しい発達障碍者も多いようです。ところが、通っても、難しいレベルの発達障碍者もいて、本当に個人差がありすぎるようです。

 ほとんどの人は、自分に関係ある部分を抜粋した自分用の取り扱い説明書があったら、どれだけ楽かと考えるようですが、これを作ってくれるシステムは行政にはありません。それで、ほとんどが自力で作っているようです。取扱説明書を作成できるだけの発達障碍者の「当事者」は、本も読めるし、知識は覚えておけるし、まじめだしという人が多く、面倒だとすぐに思ってしまいやすいADHDの人は、「やりたいとは思うけれど、実際にやれないんだ」という人も多いようです。

 行を読んでも、飛んでしまう。情報が羅列していて、把握できない。こういう人の場合は、ゆっくりと自分のペースに合わせて、ものすごく情報量の少ない、絵の多い本を活用して覚えたほうがいいようです。

 自分に合った本を見つけることから始めたほうがいいかもしれません。

何度数えても

 集中できない。過集中しすぎる。発達障害の「当事者」の人たちが語る実態は、「周辺者」には驚くことばかりです。こういう細かい事情は、世間には知れ渡らず、出ている情報は、「自分のことを優先する」「空気が読めない」「天才が多い」などが多いようです。
 何度数えても、数が数えられない。家計簿をつけても、つけても数字が合わない。地図が読めない。たくさんあるものから、自分が欲しいものを見つけられない。言葉だけ聞いていると、そこまでひどいように感じませんが、実際に生活をしていると大変らしく、仕事にならないというレベルの発達障碍者も多いようです。個人差がありすぎて、テレビで紹介されているのは、平和なケース。実際に困っているのは、ものすごい金銭問題が出た。親族の複数の人に症状が重くて、「おかしいのは、お前だ」と症状がない、「周辺者」の家族のほうが、病院に連れていかれたというぐらいのケースも出ています。

 数が数えられないというのを聞いて、さすがに驚きました。数を数えるって、色々な仕事でたくさん、いくらでも必要になる作業です。金銭の管理なんて、できるわけがない。それができない理由は、ほかに気を取られると、つい、そちらを見てしまうらしい。程度がひどい人は、間違えてばかりというのも多いようです。
 同じ症状名なのに、個人差がありすぎるため、その人にあった方法を考えていくことが必要になるようです。


 ほとんどの人が言っている。小さいころにわかっていたら。そして、わかるような説明方法が、学校や、教育書に書かれていたら、違っているのにと。外国では、肯定、否定がはっきりしており、察してくださいという場面が少ないために、ASDの人は、そこで困るということが少ないらしいです。日本は、空気を読んでくださいというのがあるので、一般人でも、「???」という場面は多いです。学校の先生たちが、発達障害の正しい知識を学んで、一緒のクラスで、教室に溶け込ませるような教育現場にならないと、社会的な浸透も難しい気がします。お仕事のサポーター制度ができるようですが、学校も、それから地域もサポーター制度ができるといいなと感じます。

ページの用語

「当事者」ASD、ADHDの症状がある人
「周辺者」アスペルガー、ADHDの周辺にいる人
「専門家」カウンセラー、精神科医